今日のシンケンジャー雑感

さて、ほんとうにひさびさに現行特撮もののネタを最初にかこうとおもいますが、今日のシンケンジャー『悪口王』は、これまたいい意味で予想が裏切られた感じで楽しめた話でした。

先週、予告編をみたときは、悪口で相手にダメージを与える怪人という設定や、その怪人の攻撃を「小さいころから周囲からアホといわれてきた」イエローがかわすという展開のようだったので、まさか「悪口はそれを気にする方がわるい」とか、そんなテーマの話かとおもって、だったら嫌だなあとおもっていたんですが、実際はむしろ逆のテーマで、「だれにも触れられたくないことがある」というラストのセリフに象徴されるように悪口を否定する話だったのでよかったですね。

こういう話をやってくれたということは、やっと東映も、白倉PD(および井上敏樹)台頭以降の、平成仮面ライダーあたりの作り方を反省したのでしょうか。しかし、「ボウケンジャー」での例をだすまでもなく、またしばらくして急にそれまでの展開を無視したような形で思想転向することもありえますので、まだまだ予断の許さない状態がつづきます。

このサイトでなんども取り上げてきましたが、アメリカ軍では新兵を周囲の人間たちが罵倒しまくり、その罵倒という言葉の暴力で、人間の持っている優しさを取っ払って、「殺人マシーン」に作り変えていくのだそうです。こういうことは、『アメリカばんざい crazy as usual』というドキュメンタリーで描かれています。

*この問題についてふれた記事です。
2008/9/10『大人が学ぶべき「寓話」 』
https://wandaba2019.hatenablog.com/entry/56680780

しかし、今回の話で少々ひっかかるのがレッドがなぜか「うそつき」といわれると傷つくという展開があって、これがわかりにくい。あえて意味不明にしたのでしょうか?それとも、前回の展開をうけて「表面的には冷静だけど内心は戦いに動揺している」ということを「うそつき」といったのでしょうか。


こういう言葉の暴力というのを、憲法21条の「表現の自由」を担ぎ出して正当化するような動きが、一部の出版マスコミにおいてみられますが、これはあくまで、そのまえの12条および13条で、憲法が保障する国民の自由および権利に「公共の福祉に反しない限り」という制限をつけているので、その範囲での自由だとおもえます。

事実、このサイトで以前ふれましたが、アメリカの3大ネットワーク局(テレビ)は、リベラル派で人権重視なので、差別表現は自粛しているそうです。人権を否定する資本主義の右派はラジオや新興ネットワーク局におおく、差別表現にはオープンです。これらのことは『オバマ・ショック』(越智道雄町山智浩共著 集英社新書)でふれられています(p63、173)。

以前、この日記では小室直樹の著書の引用をして、マルキシズムローマ・カトリック系の思想だとかきました(2009/1/10『戦慄の派遣村ドキュメント?! その1』)。
最近、『リチャード・ローティ ポストモダンの魔術師』(渡辺幹雄/著 春秋社)を読み返したら、ローティもマルクス主義を「疑似宗教」とよび、ローマ・カトリックと重ね合わせていたという記述がありました(p305)。やはり社会主義というのは、宗教が内包していた「人間を人間らしく扱う考え方」をベースにした思想だとおもえます。

ちなみに、この『リチャード・ローティ ポストモダンの魔術師』によれば、本来デリダ派の左翼というのは、「公/私」の二項対立を脱構築して、個人主義を否定するというものらしいです(p242~243、416)。ようするに個人的な自己創造と公共的な責任を両立するようにするのが、デリダ派左翼の本来のスタンスのようです(p416)。
日本で90年代以降に台頭してきたデリダ派の自称「ポストモダン・リベラル」の文化人たちは、こういうロジックで論理を展開した人なんてだれもいなかったとおもえるのですが(とくに誰とはいわないが東浩紀とか)。