今日はいそがしいけど更新します

さて、今日は私用でいそがしいので、要点だけをちょこちょこ書いて終わらそうとおもいます。ひょっとすると、今日の日記の補足のようなことを、後日(月~金曜日)あたりに書くかもしれません。

昨日ヤフーのトップページにアインシュタインの特集があって(ヤフー知恵袋の質問のいくつかをリンクしたもの)、それによると、アインシュタインも日本人の集団主義的な文化や価値観をほめていたそうです(杉元賢治編訳『アインシュタイン日本で相対論を語る』(講談社)p142)。このように、やはり集団主義こそが日本の伝統的な価値観であり、最近「自己責任論」で日本に浸透している個人主義というのは、欧米的な価値観だといえるとおもいます。
代表例が、リバタリアニズムの思想家ノージックの唱えた「権限」の論理で、これは「その人の能力や境遇に見合うぶんだけその人は自由になれる」という、いわゆる実力主義の考え方そのものであり、自己責任論というのは、このノージックの考えと全く同じものです。

しかし、ここで注意しなくてはならないのは、アインシュタインがほめたという日本の集団主義的な価値観のルーツを天皇制(=絶対王政)や封建制にもとめてはいけないということです。
このサイトで何度も書いていますが、こういう伝統というのは、縄文時代の社会が原始共産制の時代だったとしたうえで、この縄文時代が、日本の集団主義の伝統のルーツであると言い続けないといけないとおもいます。実際、元赤軍派塩見孝也も『さらば赤軍派 私の幸福論』(オークラ出版)という本で縄文時代についてふれています。

なぜ90年代に個人主義(=資本主義)がこれほど日本に浸透したのかといえば、やはりポストモダン哲学というのが、個人主義と親和性のあるものだったとおもえてなりません。90年代に某文化人が日本に流行らせた「善悪はないから、世の中強弱だけ」というの価値観は、個人主義の論理としかおもえないからです。

最近、貧困者自身が生活保護をいやがるということも話題にのぼりますが、これは上記のような個人主義の浸透と同時に、80年代後半にはやった『金魂巻』で、生活保護の受給者がバカにされていたということが原因としてあるとおもいます。

金魂巻』で書かれていた生活保護の受給者をバカにした記述の例としては、マルビのテレビディレクターとして、テレビ映画の監督がバカにされながら紹介されていたことがあげられます。このなかに「テレビ映画の監督はギャラが安いので生活保護をうけている」ということがバカにされながら紹介されていたと記憶しています。
要するに生活保護を受けたがらない人というのは「生活保護をうけたら、自分はマルビの人間になってしまう」と考え、それをいやがって見栄をはって生活保護をうけないでいるのだとおもえます。

また、90年代には、自由競争の勝利者に逆らうことは妬みにすぎない、という価値観が浸透していたとおもいます。なので、みんな社会で成功したというような有名人のいうことには、だれも逆らわず、「そういう人には他の人とちがうオーラがある」などと、まるで生き神様をあがめるようなことまで言い出しました。このオーラというのは、このサイトでなんどかふれているハロー効果によるものでしかないでしょう。ハロー効果によって、有名人(文化人)が大衆を操って支配していたというのが、90年代の社会の実態ではないかと、筆者はつくづく思います。

今の日本の格差社会というのは、実行犯は政府であり、そういう意味では政治災害ですが、じつは主犯はマスコミに登場したポストモダニズムの文化人であり、そういう意味では哲学災害ともいえるとおもいます。

*追記(2010/4/12)
『全国政治新聞グローカル』730号以降(2009/01/01号・自治連帯エコロジーをめざす政治グループ・蒼生発行)にも、日本の格差社会の原因は90年代のポストモダンニューアカデミズム)のブームだという内容の文章がのったみたいですね(本葉一成の連載『ポストモダン思想の功罪と「正義=公共性」の再構築』)。

で、話かわって今日のシンケンジャーですが、あの脚本家が、今の東映テレビプロが、「主人公が特訓して新必殺技を会得する」という話をちゃんとつくるとは思わなかったんで、いい意味で意表をつかれましたね。
今日のは、先週みたいに変なブチこわしみたいなセリフや展開もなくて、非常にたのしめました。レッドがプレッシャーを一人で背負いこんでしまわざるをえない状況でのなかで苦悩するとか、最後の「正直ビビッた」というセリフとか、ちゃんと今風の視点やセンスもあるドラマでよかったです。ロボが新モードを披露したとき「なんだよこれ?(グリーン)」「説明はあと(レッド)」というのも笑った。