大人が学ぶべき「寓話」

さて、本題に入るまえに、実は以前の日記『なぜ顔がまずいと絶望するのか』(2008/7/12)で、筆者が「あるセミナーに行ったら不登校の人に会った」ということをかきましたが、このセミナーというのが、あらぬ誤解を招いているかもしれないんで、訂正しておきます。自分が行ったのはセミナーではなくて、市民フォーラムでした。セミナーと書くと、なんか宗教系のところに出入りしているとおもわれてしまうんじゃないかとおもったんで、訂正しておきます。

*参考『なぜ顔がまずいと絶望するのか』(2008/7/12)
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/55848543.html
(該当箇所は、すでに「市民フォーラム」に直しています)

このフォーラムは、この日記で、よく感想をくださる読者のV3ホッパーさんからのお誘いで行ったものでした。会場には、不登校についての著書を書いている貴戸理恵さん(東京大学大学院博士課程)がアドバイザーとしていらっしゃいました。直接話すことはほとんどなかったですが、「こういう研究をしている学者がいるんだなあ」と、ちょっと驚きましたね。

しかし、このフォーラムでは、筆者がこの日記で書いたような「内向型の人間が学校でよくイジメにあう」というような問題は話題にならなくて、ちょっと残念でしたね。当事者もいましたが、なぜ学校に行きたくなくなるのかということについて、自分でもうまく言葉にできないような感じでした。

こういうのは、最近『反貧困』の湯浅誠がいうような「自己責任の内在化」というものに近い状態になっているのではないか、と筆者は感じます。内向的な人がイジメにあうというのが「当たり前のこと」であると、内向的な人間自身が思い込んでいるため「そこに原因がある」ことに自分で気づかないということがあるのではないかとおもいます。

なぜ、そういう「自覚できない内在化」が起こるのかといえば、そういう認識がマスコミによって植えつけられたものであるからに他ならないとおもいます。

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』によると、人間はマスコミの影響を受けた思想や感情などを、自分自身のものだと思い込むこともあると延べています。この例としてフロムは新聞の影響をあげています。一般の新聞読者に、ある政治問題にについてたずねると、その人はその新聞に書いている意見を、自分の思考の結果と思い込んで語るのだそうです(211ページ)。

このサイトでは何度も書いてきましたが、80年代にネクラという言葉をマスコミが流行らせたため「内向的な人はイジメにあって当然」という認識を、日本人の大衆は刷り込まれてしまい、それを自分の思考の結果だと思い込んでいるという可能性があります。なので、内向的な人本人が、「自分のような人間はイジメにあって当然」と思い込んでいるのではないかとおもいます。

内向的な人は、今の社会では「反社会的な人間の代表」のように思われていますが、かつては「反社会的なところがすくなく信用される」という評価をうけていまいた。そのことについてふれた過去の日記です。未読の方はどうぞ。
2008/7/26『八王子通り魔事件について』
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/56025241.html


で、やっと本題なんですが(前置き長すぎ)、前回の日記で「第二期ウルトラはテーマ性のつよい童話(児童文学)をめざしたものであると書き」、それの例として那須正幹の『ねんどの神さま』について書きました。この『ねんどの神さま』は、最近川北紘一の率いるドリーム・プラネット・ジャパンで実写映像化したそうで、時期的にもタイムリーだったんではないかとおもいます。

*未読の方はどうぞ『反体制ではなくて反動ではないか 』(2008/9/13)
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/56599245.html

で、この前回の日記で代表的なメッセージ性のある童話として『イソップ寓話』を例にだしましたが、なんと奇遇にも、今週の『週刊SPA!』(つまり今でているもの)に、イソップ寓話が「大人も必読」の本として紹介されているではありませんか。
それは『佐藤優のインテリジェンス職業相談』というコーナーです(p27~29)。このコーナーは、以前『SAPIO』の小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』で、佐藤優が批判されたことがあったそうで、それに対する佐藤氏側の反論を、人生相談形式で書いたものになっています。

この記事は、小林よしのりをモデルにした「大林わるのり」という人物が佐藤氏に人生相談をもちかけるという想定で書かれたパロディーで、このなかで佐藤氏は『ゴーマニスム宣言』や論壇誌のインタビューにおける小林氏の言動を、遠回しに批判しています。

「大林わるのり」に対する佐藤氏の答えのなかに『イソップ寓話』のこうもりの話がでてきて「大林さんは論壇では漫画家の顔をし、漫画界では論壇人の顔をしている」といいます。そして、この答えの「参考文献」として、岩波文庫の『イソップ寓話集』が「大人も有名漫画家も必読」として紹介されています(p29)。

佐藤氏と小林よしのりが、どういう形でもめているのかは、筆者はよくしらないのですが、佐藤氏のいうところの小林よしのりのやっていることというのは、なんか某巨大掲示板で個人サイトを叩いている人たちと似てますね。

叩いている相手が挑発に乗ってくると某巨大掲示板の人達は「おれたちと同じレベルだ」といって馬鹿にし、「付き合いきれない」と思って相手にしないと「おれたちが怖いから逃げている」と馬鹿にするんですからねえ。
佐藤氏は、『ゴー宣』における自分への批判を「人格的な誹謗中傷なので対応しきれない」としていますが(p27で佐藤氏自身をモデルにした「ラスプーチン」という人物にそういわせている)筆者とて「基地外」「氏ね」とかそんなことばっかり書かれても、なんと対応していいかわかりませんよ。

アメリカばんざい crazy as usual』というドキュメンタリーによると、アメリカ軍の新兵教育キャンプ(ブートキャンプ)というのは、新兵を周囲の人間たちが罵倒しまくり、その罵倒という言葉の暴力で、人間の持っている優しさを取っ払って、「殺人マシーン」に作り変えていくのだそうです。

某巨大掲示板がしかけたといえるネット言論の「罵倒」の大流行というのは、いわば日本全体をブートキャンプにしていっている気がしてなりませんね。

内輪だけでネチネチ悪口をいう「mixi」にいたっては、これにさらに日本的な「ムラ社会」の排他性がくわわります。
そういう「mixi」で嬉々として村八分イジメをやっているウルトラシリーズのファンの人間(一部関係者も??)たちが、なぜか日本人の排他性を批判した『怪獣使いと少年』を傑作として取り上げたりする。あの作品から何も学んでいないんじゃないか??
mixiに参加すること自体がそういう排他的な「村社会」への参加を意味するが、切○理○はそのへんをどう折り合いつけてるんだろうか。また、この回の作者自らも参加している疑いも浮上しているが、そうなると、もう『怪獣使いと少年』は作者のもとを離れて独り歩きを始めているとすらいえる)。
*参考『「ミクシィ八分」―思わぬ所でイジメが判明』(夕刊フジより)
http://www.yukan-fuji.com/archives/2006/11/post_7704.html

ちなみに某巨大掲示板のサーバーはなぜかアメリカにあって、元アメリカ軍の人間が管理しているという情報もありました(以前の『AERA』2004年7月12日号の「さらば2ちゃんねる」という特集にのっていた)。そういう某巨大掲示板を、なぜか国内マスコミは、いまだにあまり批判的に取り上げません。いわば日本全体が、巨大なブートキャンプと化しているといえましょう。

*ちなみに「さらば2ちゃんねる」の全文が載っているサイトがありましたんでリンクしておきます。
http://f46.aaa.livedoor.jp/~fffhse/aera-2ch.html

*追記(2008/9/22)
ちなみに、岩波文庫イソップ寓話集』(中務哲郎/訳)の巻末の解説によると、宗教改革者のルターは民衆教化の手段としてイソップ寓話を高く評価して、いくつかの寓話を自らドイツ語に訳していたという(364ページ)。
ルター派プロテスタントというのは、予定説を否定するプロテスタントであり、予定説を唱えるキリスト教原理主義カルヴァン派(資本主義に通じる)と対極にあるプロテスタントである。そのルターが寓話による民衆教化を考えていたというのは重要です。この、ルターがイソップ寓話に注目していたいう話は、あるいみテーマ主義の原点といえるだろう。

*補足:「社会主義は失敗したんだから、世の中強弱しかない。だから「罵倒はだめ」なんてモラル論を説いたってムダだよ」とお思いの方は、資本主義と社会主義の折衷的な「福祉国家」をご存知ですか? 知らない方はどうぞ。
『現実的な社会変革』(過去の記事です)
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/55262715.html