今日も疲れてるけど更新します

さて、先週から筆者は私用や仕事でいそがしくて、今日はかなりバテてましたが、シンケンジャーがまたまたいい話だったんで、ぜひ更新しなければとおもったので、ちょっと無理して更新します。どういうわけか今月は仕事も年度末ゆえか大変なうえ、休日にもいろいろ予定が入っていそがしいです。

今回のは、封建制としての「お上への奉仕」を否定して、その上で、ちゃんと人類愛を肯定して、シンケンジャーの目的を「この世を守る」と言わせていたのがよかったですね。メインのドラマ部分はいうことなしで、単なるギャクのキャラクターのような黒子を、ちゃんとドラマのオチに生かしていたりして、最後も余韻ののこるドラマになっていました。
(唯一少々ひっかかるのが、怪人の設定が「いつもぼーっとしている」という設定なので、これが内向的な人を罵倒するネタをやろうとして途中でやめたみたいにみえなくもないという点だけか。)

こういう人類愛、パブリックの訳語としての公共という概念は、これを認めるか否定するかで、リベラルか、資本主義の保守かの分かれ目になる重要な要素です。

こういう人類愛としての公共は、60年代のアメリカのロックやドラッグカルチャーの根底にあるものです。『アシッド・ドリームズ』(第三書館)によれば、ドラッグ文化にかかわっていた(88ページ)詩人のチャールズ・オルソンは「個人とは公けであり、その公とは、われわれが行為するところにある」といっていたそうです(183ページ)。

この時期からアメリカで企業の不正を告発する消費者運動をおこなっているリベラル派の運動家、ラルフ・ネイダー(ネーダー)は、越智道雄アメリカ「60年代」への旅』(朝日選書)によると「週百時間働き、独身で一切の愉楽を犠牲にした行者的生活」をする「超人的な公共意識」の持つ主だといいます(190ページ)。ネイダーは「自分には私生活はない。公的生活だけだ」といいきるのだそうです(274ページ)。

このサイトでなんども書いてきたことですが、90年代の「公と個」の論争のときは、なぜかあまり顧みられなかったが、現行の日本国憲法にも、12条と13条で公共という言葉がつかわれており、日本国憲法は本来は個人主義憲法ではないといえます。
日本国憲法とほぼ同時期にできた「世界人権宣言」にも29条などに公共(パブリック)という言葉があります。さらには「子どもの権利条約」にも第14条などに公共という言葉がつかわれています(これらの事実も、なぜか90年代以降の日本のマスコミではオミットされることがおおい)。

別に筆者は今の子ども番組のヒーローに「一切の愉楽を犠牲にした行者的な生活」を強いるわけではないです。ここでネイダーの話を出すと誤解を招きそうなので念を押しますが、個人的な幸福と公共意識を両立するようにすればいいのです。事実、昭和のヒーローは、ある程度それができていたとおもいます。昭和のヒーローは、オフのとき(敵が攻めてこないとき)は、普通に遊びにいったりしており、別にネイダーのように「一切の愉楽を犠牲にしている」わけではなかったとおもいます。

ちなみに、前回の日記で『リチャード・ローティ ポストモダンの魔術師』』(渡辺幹雄/著 春秋社)のなかに、本来のデリダ派は「公/私」の二項対立を脱構築して個人主義を否定するものだと書かれてある(p242~243)ということを紹介しましたが、ちょっと説明不足でした。
より正確にいうと、個人的な自己創造と公共的な責任を両立するようにするのが、デリダ派左翼の本来のスタンスのようです(p416)。

話かわって、昨日は派遣村のボアンティアの方々とあつまって飲み会をやってました。ちなみに『派遣村 国を動かした6日間』(毎日新聞社)という本に、ボランティアのリーダーの方が寄稿していたので、その方を囲んで出版記念パーティという感じでした。ちなみにこの本には頭だけ筆者が写っている写真があります(笑)。どれだか当てた人には金一封(←食用金粉の入ったポチ袋)を進呈しましょう!