7/8ウルトラマンメビウス雑感

今日のは予想に反して傑作でしたね。ひさびさに太田脚本に感動しました。筆者がもっとも危惧していた個人主義への傾倒はなく、むしろテッペイの利他的な行為がドラマの中心でしたね。メビウス版ワンダバの歌詞の中心的な言葉である「ひとつの道」という言葉を、ドラマのテーマ的につかっていました。

メビウスはこのままの調子でいってほしいですねえ。でも、リュウケンドーボウケンジャーもある日突然個人主義に転向するという怪現象をおこしたので、まだまだ予断の許されない状況がつづきます。なんどもいいますが、筆者は仮にお気に入りの番組やスタッフ、キャストが個人主義に転向しても、それにつられて自分が個人主義に転向するということは絶対にありません。これだけは絶対ですのでご注意ください。

さて、前回の日記で個人主義の反対語は全体主義ではなく集団主義ではないか、という話題をしましたが、個人主義集団主義との対比について論じた本がありましたので紹介します。

H.C.トリアンディス著『個人主義集団主義 2つのレンズを通して読み解く』(北大路書房)は、個人主義集団主義について、さまざまな学者の研究を引用しながら対比的に論じた本です。

よく、集団主義というのは、日本固有の価値観だ、みたいなことをいう人がいますが、この本によればそうではないようです。
個人主義は文字以前社会でもいくらかはみられたが、多くなったのは現在のヨーロッパや北アメリカにおいてである。一方、集団主義は、集団立場が中心という考えに基づいており、世界の「残り」のほとんどの地域でみられる。したがって、たいていの場合は「西洋」と「残りの地域」との比較を行うことになる。(p18)」
こういう記述がこの本にあるように、集団主義は西洋以外のどの国でもみられ、国際的にみて個人主義こそが西洋独特ともいえる特殊な価値観ということになるといえそうです(イラク侵攻あたりの国内マスコミのオピニオンは、あきらかにこの部分を正反対に取り違えていたようにおもえるが…。)

この本によれば、「『純粋な』個人主義または集団主義は望ましいものではなく、これら2つの社会的パターンのバランスのとれた混合が理想的」という記述があり(p17)、そのうえで、「孔子ソクラテスのような偉人たちはバランスを強調した。反射神経の過敏な、自由市場肯定者たちはこのことを忘れている。」と、個人主義に偏った自由市場主義者を批判しています(p179)。

この本には「垂直的個人主義は自由市場の理念または共和党の右翼にあたり~(後略)」という記述があります。やはり個人主義は本来は右翼の思想なのです(p175)。
この本では「過激な」という意味あいで「垂直的」という言葉をつかっており、穏健というような意味で「水平的」という言葉をよく用いています。なので上記の引用箇所の「垂直的個人主義」というのは過激な個人主義というニュアンスの言葉でしょう。

そして、この本で注目すべきは以下の記述です。
「『純粋な』個人主義は、ホッブス主義の『万人の万人に対する闘い』、利己主義、自己愛、アノミー、犯罪、高い離婚率、子どもの虐待を招く(p19)。」

ここで書かれていること、とくに利己主義、犯罪、高い離婚率、子どもの虐待というのは、まさに今の日本の社会問題そのものではないでしょうか。今の日本の諸問題は、やはり個人主義の行き過ぎということで、ある程度説明できるとおもわれるのですがどうでしょうか。

この本ではアメリカなどの核兵器武装ラッシュも根底には個人主義的な競争心があるとしています。
「垂直的個人主義者間の極端な競争心は不安(私の課題達成は十分なのか)と欲求不満(私は十分な達成をおこなっていない)を産む。競争心は差別(他の集団よりも私は優れている)に結びつき、核兵器武装ラッシュに関係する。(p188)」(これはシューという別の学者の意見の引用)

この本自体は、著者自身が本のなかで「自分は個人主義に偏っている(大意)」と明言している(p174)ように、集団主義に対する批判的な記述もおおく、全体的に集団主義より個人主義にやや高い評価与えている感があったりする点などは割り引いて読まなくてはならないとはおもいます。ですが、個人主義に対する批判的な記述には興味深いものがおおいです。
この本の著者トリアンディス氏はイリノイ大学の心理学科の教授だそうですが、副島隆彦の本での分類におけるアメリカの民主党のネオ・リベラリズム(最近のやや保守化した民主党の政治家のイデオロギー)に近い考えの人物のようですねえ。
この本については、次回の日記でも触れたいとおもいます。