びっくり!テポドンがふってきた!

このタイトルはちょっと不謹慎でしたでしょうか(汗)。
テポドンって結局単なる軍事演習だったんじゃないの?? そんなことだったらほかの国でもいくらでもやっているようにおもえるんですが。
ひょっとして、単なる演習をあたかも先制攻撃をかけようとしたみたいに大騒ぎして、北朝鮮に侵攻する口実を作ろうというのが、アメリカと日本の思惑なんではないでしょうかねえ。
自分は北朝鮮のことについて、そんなにくわしいわけではないんで、こういう自分の予測がピンボケだったらすいません~。

さて、前回の日記のつづきです。前回紹介した『個人主義集団主義 2つのレンズを通して読み解く文化』(北大路書房)には、巻頭で、自分がしばしば近年の東映ヒーロー作品を批判する際によく出すたとえ話そのままみたいな話題がでてきます。これはヒーローものの主人公の行動理念の部分に深くかかわる問題なので、本サイトの本来の趣旨に合致していますので、紹介いたします。

この本の巻頭には、ブラジル、フランス、インド、カリフォルニア、モスクワ、ニューヨーク、日本、イギリス、ドイツ、イリノイの10箇所で起こった10種類の出来事を例にだし、これらの出来事が個人主義集団主義のどとらかに分類されるのかを論じています。

これら10の例すべてをここに列挙するのは割愛しますが、興味深いのはモスクワとニューヨークのできごと。
「モスクワの通りでは、年長の女の人は、母親が包みこむような愛情でもってこどもに接していないと思えば、見知らぬ母親であってもしかる。」
「ニューヨークでは、女の人が通行人にボーイフレンドが暴力をふるうので助けて欲しいと頼んでも、誰も助けない。」(p1)

この、モスクワとニューヨークのできごとはモスクワが集団主義的、ニューヨークが個人主義的な出来事として、この本で説明されています(p2)。

そして、「ロシアでは、コミュニティ全体が子どもの養育に関して責任をもつのが当然であると考えられている。もし両親が適切に子どもと接していなければ、年長者がコミュニティのしきたりにしたがい責任をもつのである。『他人の仕事に口だしする』ことはまったく自然であり、期待されることでもある。(p3)」とし、「年長のロシア人は通行中の母親と自分を結びつけたのに対して、ニューヨーカーは助けを求めた女の人とは何の結びつきもないと思ったのである。(p5)」と対比的に分析している。

このように、通りすがりの見知らぬ他人でも、助けが必要とあれば助けてあげようとするロシアの市民は集団主義、反対に見知らぬ他人が助けをもとめても見てみぬふりをするアメリカ人は個人主義ということがいえるのです。

最近の東映のヒーローものによくある「好きな人しか守らない」という行動理念は、この「他人に道端で助けを求められても見捨てる」というアメリカ人に通じるのはいうまでもないでしょう。

まぎれもなく、今の東映ヒーローの行動理念は個人主義的であり、それはアメリカの個人主義に通じるものなのです。こういう「他人は助けない」という価値観は、公共投資の否定に通じ、社会保障の否定と同義であり、これが格差社会の元凶になるのです。

アメリカでは、こういう個人主義こそが右翼の価値観であり、こういう価値観こそがアメリカ資本主義、すなわちブルジョアイデオロギーなのですが、今の東映のスタッフは、あたかも進歩的な価値観だと錯覚しています。そして、こういうブルジョアイデオロギー的な価値観を子どもに刷り込んで、日本をアメリカの保守政権に加担する人間にそだててしまおうとしているといえるのではないでしょうか。

この『個人主義集団主義~』という本では「個人主義がはやると犯罪が増加するという」ことも、繰り返しかかれています。
「私にいわせると、個人主義に関連する犯罪の問題は、個人主義集団主義をめぐる長短所の道徳的および政治的議論の中心課題である。社会的統制、特に自己抑制が低下すると、明らかに犯罪率が上昇する。1980年代では産業国諸国において極端な個人主義と競争性によって特徴づけられ、日本を除いたすべての国において犯罪率の3倍増が観察されている。」(181ページ)

このように1980年代では、日本以外の資本主義国で犯罪が増加したそうです。それはやはり資本主義は個人主義に通じるがゆえに、資本主義国では個人主義が流行し、それによって自己抑制のきかなくなった人間が犯罪に走るのでしょう。今の日本の犯罪の増加は、80年代に日本以外でおこったことが、日本で一足おそく90年代から現在にかけておこっていると考えていいのではないのではないでしょうか。

こういう話題にウルトラを絡めるのもなんですが、ウルトラマンレオの序盤によくでてきた通り魔宇宙人というのは、こういう自己抑制の効かなくなった極端な個人主義を象徴しているといえないでしょうか。個人主義は資本主義に通じるから、それとレオとの戦いというのは、まさに資本主義との対決を象徴しているといえないでしょうか?!?
あのレオの通り魔宇宙人というのは、もともとどこか不条理で独特の味わいがあって不思議な魅力を放っていたのですが、上記のように極端な個人主義の象徴として捉えると、実は大変奥の深い意味をもつ星人をいえるのかもしれないのです(!)。
(こういうことレオのDVDのライナーに書いてくれるとうれしいなっ)