戦慄の派遣村ドキュメント?! その2

さて、今回も先週にひきつづき、筆者が年越し派遣村にボランティアにいったことについて書いてみたいとおもいます。
*前回の日記です。未読の方はどうぞ
『戦慄の派遣村ドキュメント その1』
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/58010413.html

初日に、朝9時から村内集会があり、この村内集会から参加しました。このときに田中康夫がスピーチしていましたが(このへんは恐らくニュースでもよくながれたのではないでしょうか)このあと本部テントと倉庫テント(大型のテントハウス)設営をはじめ、そのあとに物資の運搬(トラックから食材や布団などを出す)をやりましたが、ふとみると、田中康夫が物資を運ぶのを手伝っていました。リンゴの入った段ボールを運んでいた筆者の後ろ数センチのところにいきなり田中氏がいたのでおどろきました。

その田中康夫に、もともと日比谷公園にすみついていたホームレスのおじさんがくってかかり、一触即発の状態になったというハプニングもありました。
このホームレスの方は50代ぐらいで、滑舌があまりよくないので、どういう理由で怒号をあげていたのか今ひとつよくわかりませんが、ホームレスのほうが、派遣村についてちょっと誤解していたようで、実行委員会の人間が説得にあたったところ大人しくなり、あとの日ではほかの入村者の方々と一緒に食事をもらったりしてましたね。

話は前後しますが、田中康夫は後日にラジオ番組で、この派遣村について言及していたようです。よそのブログで書いてあったのを読んだだけで、この放送自体を直接はきいていませんが、田中氏にいわせると、今回の年越し派遣村は、本来主催者側は慈善運動として行っていたのに、政治家に利用されて政治運動にされてしまったというような論旨の批判をしていたそうです。

しかし、これはいままで湯浅誠が著書のなかでおこなっている主張を、田中氏はよくしらないで発言しているとしかおもえない発言です。
湯浅誠は著書『反貧困』(岩波新書)のなかで「私たちの矛先は政治にむかう。集会スローガンの一つは「貧困問題に取り組まない政治家はいらない」だった(p216)」とかいており、かなりはっきりとこの貧困の問題を政治的に解決しようという意図がみられます。

おもえば、今回の派遣村は、派遣切りを構造改革によって起こった「政治災害」として批判する主催者側の主張を具現化するものだったのだろうとおもいます。
今回の派遣村には、ほかの震災の被災地にもボランティアにいった経験のある方々が何人もいましたが、みな「震災の炊き出しと一緒だ」と語っていたのが印象的でした。霞ヶ関に隣接した日比谷公園に震災の炊き出しと同じ状況をあえてつくりだし、政治災害という事態を、目に見える形で政府側に提示したのが、この「派遣村」だったのではないでしょうか。

当初は100人と想定していた派遣村の入村者が、2日めの1月1日の時点で倍以上にふえたので、テントが足りなくなりました。そのため食料庫としてつくったテントハウスは、1月2日あたりから入村者の入居用に改装しました。倉庫内の食材は、単に地面に積み上げられて、これをボランティアはその後も「倉庫」と呼んでいました。この事情をしらない後から来たボランティアは、単に地面に積み上げてある食材の段ボール箱の群れを「倉庫」と呼んでいることに、さぞ混乱したでしょう(一応下にバラした段ボールがしいてあり、その上で夜はカラスよけにビニールシートをかぶせていましたが)。

テントは大きいテントハウスのほかに、登山用の小さいテントもたくさんつくりました。3メートル四方ぐらいの大きさで。中に3人で寝るためのもので、これを4人一組でくみたてました。これを、1月1日と2日でやりましたが、中は夜は相当さむかったようです。こういう登山用の小さいテントは、中に暖房はいれていないので、入村者は毛布に包まって寝ており、それでも寒かったそうです。

前述の、初日に怒号をあげていたホームレスのおじさんのテントも、筆者をふくめ数人でつくりました(これは実行委員会が貸したという1人用のもの)。このときはこのホームレスの方はかなり派遣村のスタッフに好意的になっていて「おれはここで10年ホームレスやってたけどやっと救われる」というようなことをいって上機嫌でしたね。話によると、実行委員会の弁護士をつけて、これからは東京都側と話し合うというようなことをいわれてました。

あと、このテントの増設の作業は、午後からはじめたのですが、冬場で日が落ちるのがはやく、5時台で真っ暗になったので、そのあとの作業が大変でした。私物の懐中電灯で他の人に照らしてもらいながらやったのですが、その電灯を貸したボランティアの方はそのあとはぐれてしまい、結局懐中電灯はそのまま戻ってきませんでした。

食料のカンパがお米、お餅、リンゴ、白菜がおおかったです。自分は包丁は苦手なので、包丁を使う調理はやならなかったのですが、白菜やキャベツは指で細かくちぎるだけでしたので自分も参加しました。リンゴをサラダにいれるときは、包丁ではなくピーラーでやりました。汁物は使い捨てのカップがありましたが、サラダはカップはなくて、サランラップでくるむだけでした(数が大量なので、くるむ作業がなかなか大変でしたが)。

ボランティアのスタッフは、おおまかに倉庫班、調理班2班(包丁をつかう仕事やオニギリ、サラダづくりをやる班と、大鍋や大きな釜で汁物やご飯を炊く班)にわかれてて、汁物をつくる班は本職のシェフのボランティアが仕切っていました。なので、かなり味はよかったのではないでしょうか。
1月の3日か4日の食事は、たしか某食料品メーカーから、ソバのカンパがあり、昼食にしましたが、入村者が予想以上におおかったので、途中からソバが足りなくなって、あわててお餅を用意して間に合わせたりもしてました。

1月3日あたりから、入村者が予定の5倍の500人前後になったといわれたので、カンパの食料がたりなくなってしまいました。
調理のリーダーから「オニギリをあまり大きくつくらないように」という指示がでるほどで、作っている自分たちも「この量で足りないだろう」といいながらつくっていました。

最後の1月4日には、食事をつくる前述の2班とは別に、甘酒をつくって配る班というのができました。これは、ヤマヤという会社(酒造メーカーのやまやではなく、炊き出し用に機材をつくっているメーカーらしい)の社長自らが、甘酒を機材ごと提供することになったので、それの手伝いとして参加しました。

甘酒は、お米を大型の蒸し器で蒸してから、それを大きい五右衛門風呂のような釜にいれてつくるのですが、このとき、カンパされた食材でサツマイモとジャガイモが大量に残っていたので、それを大型蒸し器で吹かして、甘酒のオマケにしようという提案がヤマヤの社長からあり、急遽、倉庫からサツマイモとジャガイモをだしてきて、それを水のみ場で3人がかりで洗いました。手が冷えないようにと、自前のゴム手袋を用意していたのが役に立ちました。
前述のように、1月4日となると、入村者がふえて食事の量がすくなくなっていたので、この白酒の配布は、どちらかというとオマケのイモ目当てで長い行列ができました。

この日に偶然甘酒班になったのですが、これによって、マスコミでも報じられた4日の村内集会を、間近で見ることができました。
普通調理のボランティアは、本部テントの裏で作業しているので、本部テントの前で行う村内集会は見れません。しかし甘酒班は本部テントの斜め前だったので、村内集会を見ることができました。
この集会では、各野党政党の党首クラスが、一同に会するという豪華なもので、このことからいっても派遣村が、かなり世間で話題になっているのがわかりました。

こういうことは、実はかなり珍しいことで、この4日の村内集会を「歴史的な集会」といっている政治ブログもありました。それを間近でみられたのは幸運でしたね。

この村内集会で、各政党の代表が失業者へのセーフティネットの構築や製造業の派遣の禁止などを村民たちに約束するスピーチを行いましたが、その後の質疑応答で、前述のホームレスの人が長々と演説みたいなことをしゃべりだしたのは面白かったですね。
結局、司会の関根秀一郎さんが「もっと具体的な質問をおねがいします」といって中断させてましたが、内容は(筆者の記憶では)「日本人が、日本全体が、やっとやさしさに気づいた」というようなことをしゃべっていまいた。この言葉はある意味、今回の派遣村の運動を締めくくった言葉だったのではないかとおもいます。

このあと、この村内集会に参加した政治家のうちの民主党菅直人と、共産党志位和夫が白酒を飲みにきましたね(菅直人志位和夫は初日の12月31日にも視察にきました。)。

また、この集会のあとで、なんと湯浅誠さんご本人が白酒班の近くを通って「あっジャガイモだ」と反応しているので、筆者みずからジャガイモを湯浅氏にくばってミーハーに「湯浅誠さんですよね?『反貧困』買いました!」というと「ありがとうございます」といってました。湯浅氏はテレビなどでみるより体が大きくてけっこう目立ちますね。反対に田中康夫はテレビでみるより小柄でした。

5日は仕事はじめだったので、4日の夜に日比谷公園を後にするのは後ろ髪がひかれる感じでした。できればテントの片付けぐらいはやりたかったですね。
この5日に前回もふれましたが坂本総務政務官が問題発言をして、それによって野党側が首相に任命責任を追求しはじめるところまでいったときにはかなり驚きました。自分がわずかながらですが関わった派遣村が、政治を動かしているというのは感慨深いものがありました。
前述の湯浅誠さんが『反貧困』でかいたような「私たちの矛先は政治にむかう。」というのが、具体的にどういうことをさすのかが、これでよくわかった気がしましたね(あの本では、具体的に湯浅氏の団体がどう動くのかがかいてなくて、てっきりミニ政党でも立ち上げるのかとおもいましたが)。今回の派遣村はあくまで合法的な運動だったので、こういう5日以降の政治の政界の流れというのは、合法的な運動ゆえの強みがでたとおもいます。

そして、今週、経団連と組合が労使協調で失業者へのセーフティネットの構築にのりだしました。これも派遣村が政治をうごかしたことの成果だとおもいますね。
*『雇用創出で労使協調 経団連、連合が共同宣言』(共同通信
http://www.excite.co.jp/News/economy/20090115/Kyodo_OT_CO2009011501000213.html

今回の派遣村の参加では、まだ書ききれないことや、今思い出せない思い出がたくさんあるので、また次回以降の日記で思い出し次第ポツポツと書くとおもいます。

あと、話はかわりますが、越智道雄町山智浩と共著(対談形式)で出した新刊『オバマ・ショック』(集英社新書)は超おすすめですよ!(ごく細部では町山氏の発言に「?」な部分もあるが) 次回以降この本を資料として引用することがおおくなるとおもいます。

この本では、今までこのサイトで訴えてきたことですが、アメリカでは資本主義(個人主義)が保守主義で、左翼が福祉国家(平等主義)であるということがわかりやすく書かれています。しかもちゃんとリベラル側からの視点でかいていますので、副島隆彦の本よりも人にすすめやすいですね。多くのハリウッド映画がリベラル派のものであることも、主に町山氏によって、わかりやすく説明されています。
日本マスコミが90年代以降、資本主義(個人主義)を左翼と誤解していたことについて、やっと越智道雄ご本人が動き出したといったところでしょうか。