世界はすべての人たちで分かち合うもの

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さて、前回はイレギュラーで水曜日に更新しました(お昼休みの時間帯にあわてて書いた)。もし前回の日記を未読の方はぜひお読みください。

*前回の日記『ちょっと気になったもんで 』
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/57741927.html

で、前回の日記では「人を殺してはいけない」という社会のルールは、「生存本能によって、ほぼすべての人が死にたくないとおもっている」ということが大前提になっているルールだとかきました。
このことについて、最初にアップしたときに書いていなくて、昨日追加部分なんですが、念押しのために改めて書いておきますと、この「すべての人が死にたくないと思っている」という前提は、日本国憲法の25条にもかかわってくる問題だとおもいます。

憲法25条の生存権は「すべての人が生きる権利をもつ」ことを憲法で保障するというものですが、これ自体が「生存本能によって万人が死にたくないとおもっている」という前提に立脚しているものでしょう。つまり、この「生存本能によって万人が死にたくないとおもっている」という前提を否定することは、憲法25条の否定に通じ、よって改憲論に通じるともいえます。

さて、今日の日記の本題は、このこととはあまり関係ない話なんですが、先日『無冠それでいい 天才脚本家佐々木守の世界』(片桐真佐紀/編・著 ワイズ出版)という佐々木守の追悼本みたいなものがでていて、これを書店で一部分ですが立ち読みしました。

全部よんでいないのにいろいろいうのはなんですが、この本では佐々木氏について池田憲章がコメントしていて、これには同意できる部分がおおかったんですが、一部気になったことがりました。

というのも、池田氏は「佐々木さんは子どもに対して「君が世界の中心なんだ」ということを言いたかったんだろう」というコメントをしていましたが、生前の佐々木氏がこういう考え方をしていたのかどうかは別として、こういう考え方は個人主義的であって、今もっとも見直さなければならない吉本隆明的な「シラケ」の価値観だとおもうのです。

このサイトでは、いままで繰り返し言及してきましたが、本来欧米ではリバータリアン保守といわれている資本主義の保守主義の価値観(副島隆彦の一連の著書にくわしい)が、なぜか日本国内で左翼思想であるかのように思われて誤解されているという問題があります。

はっきりいって、佐々木守の生前の発言というのも、このリバータリアン保守の考え方としか思えないようなものが多数散見され、こういう部分は筆者が佐々木氏の生前のコメントを読んでいて、非常にひっかかる部分です。
(ただし、佐々木氏の生前最後のインタビューになった白石雅彦編集の講談社Official File Magazine ウルトラマン』のインタビューで、一部こういう発言を訂正している部分があります。)。

副島隆彦の『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(講談社)では、リバータリアン保守というのは「共同体(コミュニティ)に対して、ほんのわずかでも自分の方から譲歩したり、他の人々が決めたおきて(ルール)に従わされたりするのが嫌で嫌でたまらない」という「絶対的自由主義者」であると説明されています(240ページ)。

生前の佐々木氏の発言は、こういう「共同体に対して一切譲歩しない」というリバータリアン保守の考え方に、かなり似たニュアンスの発言をおおく行っていたと記憶しています。

前述の池田憲章による「佐々木さんは子どもに対して「君が世界の中心なんだ」ということを言いたかったんだろう」という言葉は、こういう佐々木氏の生前の発言を受けたもののようですが、この「君が世界の中心なんだ」という考え方は「共同体に対して一切譲歩しない」というリバータリアン保守の考え方と事実上同じものでしょう。

で、ここで重要になってくるのは、ジョン・レノンの『イマジン』の歌詞には

「想像してごらん すべての人々が 世界を分かち合ってると」

という言葉がでてきます。この歌詞は「君が世界の中心だ」という考え方とは対照的だといえます。正反対の考え方といっていいでしょう。
(*くどいですが画像はイマジンの歌詞カードです。あらためて読んでみてください)

本来のリベラルというのは、この『イマジン』の歌詞のように「世界はすべての人々と分かちあう」と考えなくてはなりません。
社会主義というのは、財産を共有するというものなんですから、世界にある資源などを世界中の人たちで分かちあうという考え方が本来の社会主義です。なので「世界はすべての人々のためにある」と考えなくてはリベラルとはいえません。

「君が世界の中心なんだ」という考え方は、一人の人間が世界を独占するという考え方だといえます。こういうのは「世界を一個人の私有財産にする」という考え方に通じ、本来は資本主義に属する考え方です。なので、こういう考え方はリベラルとはいえません。やはり「共同体に対して一切譲歩しない」というリバータリアン保守に近い考え方だとおもえます。

前回の日記でふれた山脇直司による『社会とどうかかわるか』(岩波ジュニア新書)では、これに近い議論として、佐良直美が歌った『世界は二人のために』という大昔の歌謡曲への批判が書かれています(32ページより)。

山脇氏は、『世界は二人のために』という歌自体を個人主義的だと批判します。そして、山脇氏は「世界は二人のために」ではなく「世界は人々のために」という考え方こそが本来はのぞましいといいます(34ページ)。

これには筆者も同意ですねえ。「世界は二人のために」という歌は、聴くたびに「二人で世界征服でもしようとしてるのか??」とおもって違和感を感じていたものです。

筆者としては、この部分を読んで若干歯がゆくおもうのは、ここで山脇氏も筆者と同じようにジョン・レノンの『イマジン』の「想像してごらん すべての人々が 世界を分かち合ってると」という歌詞をだせば、若い世代にアピールするには、より有効なのではないかとおもったのです。

この『イマジン』の「すべての人々が世界を分かち合ってる」という歌詞は、山脇氏のいう「世界は人々のために」とまったく同じですから、ジョン・レノンの『イマジン』を引き合いにだして、「こういう考え方こそが理想だ」というように念をおせば、もっと若い層も食いつくし説得力が出るのにと思ったんですけどどうなんでしょうか。
山脇氏は東大教授ですから、こういうことを意見するのは身の程知らずもいいところなんですが、一読者としてこういう意見もあったということでご了承ください。

リバータリアン保守については親サイト『ワンダバステーション』の『ニーチェと少年犯罪についての一考察』の『10,リバタリアニズムニーチェ』『15.公と個の論争の検証』『16,さいごに』各項でくわしくふれています。未読の方はどうぞ。
http://www.geocities.jp/wandaba_station/niitye.html

補足:資本主義と社会主義の折衷的な「福祉国家」の成功例であるデンマークは、雇用政策が進んでいて、現在の日本の雇用問題の解決のヒントがあると思えます。デンマークの雇用政策をくわしく知りたい方は以下の日記をどうぞ。
『現実的な社会変革』(過去の記事です)
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/55262715.html