ちょっと気になったもんで

さて、今大変時間がないのですが、昨日たまたま書店でみかけた本について、どうしても書きたいので更新します。

秋葉原事件についてふれた単行本『アキハバラ発〈00年代〉への問い』(大澤真幸 編集 岩波書店) という本があるのですが、この本は昨日部分的に立ち読みしただけですが、どうも引っかかる部分がおおい本ですねえ。今年の9月の本だから、気づくのがおそかったんですが、この本があまり読まれていないことを祈るばかりです。

筆者が読んだのは、永井均の文章と、巻末の本田由紀をまじえた座談会ですが、この座談会の部分がとくにひっかかるんですよ。

まず、なぜか座談会の途中で「今の若者はコミュニケーション能力が万能だとおもっている」という話がでてきますが、一体これは何の情報を根拠にこういうことをいっているんでしょうかね。

筆者はこのサイトでなんども繰り返していますが、コミュニケーション能力があっても、今は収入が低ければばそれで女子にバカにされてしまうというのが現状です。なのでコミュニケーション能力というのは、おもに女子から認められるための条件の一つにすぎません(以前この日記ではちゃんとそういう書き方をしたんですけどね)。

何拍子かの条件がそろわないと女子からバカにされるんであって、コミュニケーション能力というのは、そういう要素の一つにすぎません。コミュニケーション能力というのは試験にたとえれば1次試験のようなもので、これがなければそこで足切りになりますが、かといってこの1次試験を通過しても、そのあとで「収入が高いかどうか」という2次試験を通過しなくてはなりません。収入がひくければ「2次試験で不合格」ということになって女子からバカにされます。なのでコミュニケーション能力というのは万能ではありません。

これはあくまで筆者の分析にすぎませんが、もしそれでも「今の若者はコミュニケーション能力が万能だとおもっている人がおおい」のであったら、それはやはり90年代の文化人たちが「社会主義は失敗したから世の中強弱だけ」などどいって「今の時代はコミュニケーション能力しかない」などと言いまくったからだとおもいます。

あと、この座談会で「今の若者は社会に承認されることに飢えている」とかいう話がでてきて、あたかもこれが病気であるかのような話になっていますが、そもそも社会に存在が認められるということは、日本国憲法の「生存権」に直結する問題ですよ。社会から存在が認められないということは「社会に存在してはいけない」ということなのだから、死ねといっているのと同じです。このことがなんでわからないんだろうか??

「認める」という言葉の意味を、なにか取り違えているんでしょうか? 一般的に「認める」というのは、「許可する」という意味の言葉だとおもいますし、筆者も一貫して「認める」を「許可する」の意味でつかっていますが、場合によっては「認める」は「他者よりも高く評価される」という意味に使われることもあります。
「社会に認められる」という文は、「認められる」という言葉を前者の「許可する」の意味にとるか、後者の「他者よりも高く評価される」の意味にとるかで、大分意味が違ってきます。この部分が、この座談会に出席している人たちでは、なにかゴチャマゼになっているようにおもえます。

前者の「許可する」の意味の「認める」なら、だれだってこだわって当然です。憲法25条というのは、「どんな人間でも社会に存在が許可される」というものなので、憲法ではだれでも「社会に認められている」ことになります。この部分は自分の生存にかかわる問題ですから、だれでもこだわって当然でしょう。それがわかっていないで話が進んでいるような感じで非常に違和感がありました。

また、永井均の文章も、短いながらかなり筆者にとってはひっかかる内容でした。永井氏は以前『これがニ-チェだ』を書いたときよりも、あきらかに後退していますね。この文章では「人を殺してはいけない」という論理は「すべての人が死にたくないと思っている」ということが前提になっている論理だと指摘し、永井氏はここに疑問をなげかけてしまいます。

しかし、筆者がこの日記で以前書いたように、そういうのは防衛本能なんだから「ほぼすべての人が死にたくないと思っている」と考える方が普通でしょう。それが「生の欲求」というものですよ。防衛本能というのは本能なんだから理屈を超越したものです。

仮にごく少数「死んでもかまわない」とおもっている人がいても、ただ道を黙って歩いているだけの通行人を相手に、それをどう見分けるのか?ということになります。「私は死んでもいいとおもっています」というプラカードでも掲げて歩いているのならともかく、そんな人はいないんですから、結局やはり「とりあえず、すべての人が死にたくないとおもっている」という大前提で社会のルールをつくることになるのは必然でしょう。

もし「この人は「死んでもかまわない」と思っている人だ」とおもって殺してみたら実はそうではなかった、なんていうことになったら取り返しがつかないですから、やはり「ほぼすべての人が死にたくない」と思っているという大前提で社会のルールをつくるしかないです。これはロールズゲーム理論で理論的に立証されているとおもいます。

*追記:前述の憲法25条の生存権にしても、「生存本能によって万人が死にたくないとおもっている」という論理に立脚しているものでしょう。つまり、この「生存本能によって万人が死にたくないとおもっている」という前提を否定することは、憲法25条の否定に通じ、よって改憲論に通じるともいえます。

話かわって、全然別の本の話題になりますが、山脇直司の新刊『社会とどうかかわるか』(岩波ジュニア新書)は、今まで公と私の関係についてふれた本のなかではかなり同意できる内容でよかったです。時間がないので詳しくは後の日記でふれますが、この本では個人の自由を生かした公共とのかかわりというものの重要性について書かれたもので、どうして90年代の「公と個」の論争のときにこういう意見がもっと出てこなかったのか不思議です。細部ではちょっと気になる部分もありますが、おおむね納得のいく本でした。

ただ、この本では国内の教育で管理教育がエスカレートしたのは70年代後半からで80年代がピークとありますが、これは筆者の通ってた学校ではちがいますねえ。筆者の通ってた学校では70年代後半がピークでした。

筆者の兄の世代が、この70年代後半にあたるみたいですが、兄の時代の小学校には「日直」と書いた木の塊(日直の生徒の机の上に立てるヤツ)で生徒の頭をなぐる先生や、竹刀で生徒を叩く先生がいて問題になっていたそうですが(と、親や兄にきかされた)、筆者が小学校に入ったときは、「日直」と書いた木の塊で生徒の頭をなぐる先生はもういなくて、竹刀で生徒を叩く先生も竹刀は使わなくなってましたね。

体罰も、筆者のときは平手で頭を叩くというのはあったけど、グーで殴る先生はもういませんでした。とくに丸刈りを強制されたりもしなかったです。こういうのは首都圏と地方ではちがうんでしょうか。地方では80年代がピークだったんでしょうか。

この本では、水戸黄門を批判している部分がありましたが、どういうわけか筆者がこの日記で以前書いたものと似たことが書いてあって驚きましたねえ。

補足:資本主義と社会主義の折衷的な「福祉国家」の成功例であるデンマークは、雇用政策が進んでいて、現在の日本の雇用問題の解決のヒントがあると思えます。デンマークの雇用政策をくわしく知りたい方は以下の日記をどうぞ。
『現実的な社会変革』(過去の記事です)
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/55262715.html