7/1ウルトラマンメビウス雑感

さて、今日のもいい話でした。ムカデンダーと人物の合成がうまくいっていましたね。ドラマももりあがりました。特撮セットが山奥だけでしたが、合成を多用していたので、映像的に単調にならずにすんでいましたね。

今回のマリナの「GUYSの仕事がすき」というのは、先日のボウケンジャーの「冒険がすき」とは方向性がぜんぜんちがいますよね。
先日のボウケンレッドの「冒険がすき」というのは、わざわざその前に「世界を守る」という使命を否定して、そのうえで「冒険がすき」と言っているから、利他主義ではなく個人主義となります。
今回のマリナは一応「GUYSの仕事がすき」といういいかただから、「怪獣災害から人々を救済する」というGUYSの目的もふくめて好きというニュアンスが強いですからね。
先日のボウケンジャーもそういう言い方だったら別段問題なかったんですけどね。90年代あたりまでの戦隊だったら、そういうニュアンスでやっていたとおもうんですが、最近どうしちゃったんでしょうか。

個人主義と対立する概念とは、本来「集団主義」といわなければならないとおもうのですが、個人主義の反対は全体主義だという誤解が定着しているのが問題だとおもいます。

全体主義というのは右翼的な組織のことをさすといえましょう。今までこのサイトでのべてきたように、右翼と左翼の境目は、階層を認めるかどうかにかかっていますので、このことからすると、全体主義集団主義の違いとは以下のようなことになるでしょう。

*ヒエラルキー(階層)のある不平等な組織=全体主義
*ヒエラルキー(階層)のない平等な組織=集団主義

またヒエラルキーが実際はあるていどあっても、なるだけなくすように工夫している組織、またヒエラルキーが多少あっても階層の差が極端ではない組織も集団主義的な組織だといえるでしょう。

そういう意味では、第二期ウルトラの、特に帰ってきたウルトラマンのMATは集団主義的な組織だったといえるのではないでしょうか。チームワークで他者との連帯をはかり、そのうえで上層部とは対立するというのは、ヒエラルキーの解消を目指している組織という意味で集団主義的といえましょう。

教育基本法の改正の問題は、国内世論で格差社会への見直しが叫ばれて公共意識への世間の関心がたかまっていることと、一部の言論人たちが公共意識とナショナリズムを同一視して語ることがおおい、ということを政府が利用し、公共意識を愛国心と結びつけてナショナリズムを市民にみとめさせ、それによって天皇に国民が服従するような戦時中のような状況をつくりだそうとしていることだとおもいます。

しかし、公共意識自体を否定してしまったら、それはそれでアメリカ資本主義の思う壺ですから、はやりバランスをとって「公共意識をみとめつつ、愛国心は否定する」というのがリベラルなスタンスだといえるのではないかとおもいます。

よど号事件の田宮高麿の書いた『わが思想の革命』には、個人主義を「古い思想」と書いている箇所がありますので(p41、p270)、70年代までの国内世論では、まだ個人主義が保守思想だという認識があったようなのですが、いったいいつごろから個人主義が左翼だという誤解がひろまったのか? これは90年代の小林よしのりあたりが「公と個」という言葉をだして変な議論をはじめたのが原因のようにもおもえます。

本来「公」の反対語は「私」だとおもうのですが、なぜか小林氏の議論ではなぜか「私」ではなく「個」になっています。「私」も「個」も同じような意味ではありますが、「公と個」とういう言葉を持ち出した時点で、あまり現代思想にくわしくない人の意見だということに他の言論人も気づいて、まじめにとりあわなければよかったのに。