ウルトラマンメビウス2話感想

さて、今回のメビウスも基本的にはよかったです。内容的には「ウルトラ5つの誓い」の「他人の力をたよりにしないこと」という言葉をセブン最終回のキリヤマ隊長の「地球は地球人の手で守らなければ」という台詞とつなげ(こういう初期ウルトラとのリンクは嫌味な感じがしないですね)、さらに初代マンやタロウであった「ウルトラマンがいれば防衛チームは要らないんではないか」というテーマに肉薄した、という感じです。しかしドラマ自体はわりとあっさりとしていて、むしろ後半のグドンとの死闘が迫力があって、特撮のテンションが高い話でしたね。

しかし、今回のワンダバはちょっとかっこ悪いかなあ~音楽が佐橋俊彦だったら、ダイナのワンダバ(メロオケ)を今回流れたワンダバと併用してくれたほうが個人的にはありがたいですね(超個人的要望・笑)。これも慣れれば違うんでしょうけど。

さて、筆者は「他人の力をたよりにしない」というウルトラ5つの誓いの言葉は「他力本願ではだめ」というように解釈していますし、実際、製作者側の狙いもその辺だとおもいます。辰巳出版で円谷作品のレビューを書いているライターたちは、この台詞をウルトラマン80のバルタン星人登場の回でウルトラマンの出現の意義として引用された「人知を尽くして天命をまつ」ということわざとつなげる文章をかいていたとおもいます。

この「他力本願ではだめ」というのは、実は社会保障というものを破綻させないためには、重要な意味をもっているといえます。社会保障が破綻する原因としてよくいわれているのは、競争に駆り立てないと、怠けて慢性的に社会保障に依存する人間(健常者)がふえてしまい、それにより経済が破綻するということです。
こういう社会保障の問題点を指摘するのは大体保守派なのですが、こういう批判をかわすためには、なるだけ社会保障に依存せずに自力でできることは自力でやる、ということが重要になってくるとおもいます。なので、「他力本願はだめ」というのは、リベラルな政治的スタンスをとる人間には重要な意味をもってくるとおもいます。

こういうことは、リベラリズム法哲学ロールズの遺稿である『公正としての正義』(岩波書店)にもでてきます。ロールズリベラリズムに適う社会をつくるため、福祉国家(福祉資本主義)とは別の政治的構想として「財産私有型民主制」というものを提唱しています。

この「財産私有型民主制」というのは、社会の一部に富や資本が集中しないために所得を分散させるという構想で、福祉国家のように各期の終わりに所得の少ない人に所得を分散するのではなく、各期の最初に所得を平等に分配するというものです。
はっきりいって、従来の福祉国家と実はあまり大差ないものです。この説明のなかに、資本主義の競争に敗北したひとたちは手助けしなければならないと前提したうえで、各期のはじめに所得を平等に分配する狙いとして「適正な程度の社会的・経済的平等を足場にして自分自身のことは自分でなんとかできる立場にすべての市民をおくということ(248ページ)」という記述がでてきます。これは、前述の「他力本願はだめ」という意味の記述と同じだといえましょう。

また、「他力本願はだめ」という意味とは少し違う意味ですが、60年代アメリカのカウンターカルチャーの人間たちで「他者に依存しない」というようなポリシーをもった人たちもいました。これはヒッピー運動の行政機関といわれたディガーズというグループです。このティガーズは、家出少年少女に無料で食料配給をしていた原始共産主義者のグループです。

『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』(彩流社)315~316ページによると、
「ディガーズをヒッピー運動の行政機関と呼んだ人がいる。事実彼らは中核をなす組織だったが、根はラジカルな実存主義者だった。彼等は要求しない。なぜなら要求とは他者への依存だからである。要求すれば、相手は要求される対象としての合法性を増々強化してしまう。食物を要求してはいけない。食物は手に入れて配るべきものだ。」
という記述があります。ちょっとわかりにくい記述ですが、ティガーズは弱者を助ける立場にいるので、そういう立場にいる彼等が弱者に依存するようでは弱者の負担になるのでいけない、ということでしょうか。

これを「ウルトラ5つの誓い」の「他人の力をたよりにしない」に当てはめると、この言葉はもともと郷秀樹が将来MATに入れと薦めた次郎君へむけられた言葉なので、万人に適用する言葉ではなく、そういう弱者を助ける立場の人間の心得としての言葉として解釈できますね。

さて、話かわって余談ですが、仮面ライダー剣の最終回近くの展開を先日の日記ではベタほめしすぎたかなあ。ギャレンがクワガタの怪人を封印するときにいう台詞とかは白倉PDの作品の主人公が言いそうな個人主義的ことを一度にベラベラいうので、ちょっとひっかかりますねえ。

しかし、そのあとでギャレンがクワガタの怪人を封印したことが原因でゴキブリ怪人が大量発生して人類の危機になるという展開なので、この展開をもって、ギャレン個人主義的な台詞を相対化しているつもりなんでようかねえ。そうならばうれしいが、やはり1年通していろいろ製作者側が迷っていて、個人主義の方向にいこうとしてまたやめて、ということを繰り返しているように見えるという点でチグハグな番組といわざるを得ないのかなあとおもいます。