WASPのPとはなにか?

さて、前回の日記では個人主義についてすこしふれましたが、個人主義市場原理主義に通じる理由や由来を、すこし詳しくかたっていきたいとおもいます。

まず、『最新アメリカの政治地図』(講談社)233ページによると、キリスト教プロテスタントカルヴァン派とは、アメリカのWASPを形成したプロテスタントなのです。WASPのPは、このカルヴァン派プロテスタントのことをさします。カルヴァン派キリスト教の解釈とは、人間が救済されるかどうかは神によってあらかじめ予定されているという「予定説」であり、人間が善行をなすことは自分が救済されることにはつながらない(よって、あまり意味がない)、という教えです。

このカルヴァン派神学者アダム・スミスは、『国富論』という本の中で「個人は利己的に利潤を追求すると、神の見えざる手に導かれて社会の繁栄が達成される。」としました。このことは、『国家の品格』72ページにも要約してかかれてありますが、『国富論』において、この「みえざる手」という言葉が書かれている箇所の前後を読むと、もっと直接的に個人主義といえることが書かれてあります。

「彼はただ彼自身の儲けだけを意図しているのである。そして彼はこのばあいにも、他の多くの場合と同様に、みえない手に導かれて、彼の意図のなかにまったくなかった目的を推進するようになるのである。(中略)自分自身の利益を追求することによって、彼はしばしば、実際に社会の利益を推進しようとする場合よりも効果的に、それを推進する。公共の利益のために仕事をするなどと気どっている人びとによって、あまり大きな利益が実現された例を私はまったくしらない。(岩波文庫国富論 2』304ページ)」

ようするに、このアダム・スミスの考えは「自由な競争が人間のエゴイズムを刺激し、創意工夫を促し、結果的に社会全体の利益を増進させる」というものです。このアダム・スミスの思想の影響をうけて「『社会のため』とは考えずに、自分の利益だけを考える」という個人主義が、アメリカの社会に定着していったのです。このカルヴァン主義と、それから派生したアダム・スミスの考えがアメリカの保守主義であり右翼なのです。

しかし、現実は、自由競争にまかせる市場原理主義は、一度勢いのついた裕福な人間はどんどん富をえていき、また一度貧乏になった人間は悪循環でどんどん貧乏になる、という経済格差が生じます。しかし、アダム・スミスの考えを信じている人たちは「社会のために」という利他的な行為を否定しているため、貧しい人たちを社会保障で救援しようとは考えずに「まだ自由な競争を妨げている障害が社会のなかにあるから、社会が繁栄しない」と分析して、競争をより徹底させようとします。
その結果、社会保障はないがしろにされ、激しい競争によって弱者や敗者が大量に社会に発生し、社会が階層化していくのです(このことは『国家の品格』182ページにもかかれてあります)。

よく、貧乏な人を「自分自身が貪欲になっていないから貧乏になってしまうんだ」というロジックで批判する記事が最近の出版マスコミで見かけますが、それは、このアダム・スミスの「みえざる手」の延長にある考えであり、よって一種の保守主義、右翼ということになるでしょう。

この「自由競争にまかせたほうが社会が繁栄する」というアダム・スミス的な考えは、日本国内では国鉄(JR)の民営化のときに定着したといえます。ようするに「事故を起こして信用をなくせば客がこなくなるから、自由競争にまかせたほうが、国鉄は安全性に気を使うようになる」として「民営化こそ安全につながる」とした考えです。
しかし、実際は安全より利益を上位におくために事故が増えたという指摘もあります。自由競争にまかせると自然と万事うまくいくという類の考えは、そこに「神のみえざる手」というカルヴァン主義のキリスト教から派生した概念なくしては成立しえない考えであり、こういう考えは実は「形而上学の影響下にある思想」ということになるでしょう。

アダム・スミスのいう利益(富)とは単純に金のことだけではなく「人間の生活のための必需品(ないし行為)」ということを指しますから、「個人が貪欲になれば社会全体の利益は達成する」という考えを金もうけ以外の行為に適用するのも保守主義、右翼ということになるでしょう。よく、「モテない人は恋愛に興味が薄い(つまり貪欲ではない)人なのだ」として決め付けて叩くという記事が90年代のマスコミにおいて多かったのですが、こういう考えもアダム・スミスの「神のみえざる手」の概念が根底にあるといえ、それ故に形而上学の影響下にある思想といえ、保守主義、右翼ということになるのではないでしょうか。

‥マスコミに対して批判ばかりしているので、ここで少しフォローを。最近、マスコミでようやく社会不安障害について報じる記事がふえました。このこと自体は評価できるのですが、なぜか社会不安障害の症状を「スピーチなどであがる」ということに限定している場合がおおいのは大変疑問です。社会不安障害の患者は「好意をもつ異性に対してあがる」という症状がでる人もおおいのです。このことは日本版ニューズウィークには一度触れられたことがありましたが、なぜか最近の報道ではオミットされているのが疑問です(結局批判になってしまった)。

(前にも書いたけど、筆者は『国家の品格』はカルヴァン主義についてふれている点と「マスコミが第一権力になった」という記述以外は、あまり納得できない本であることをお断りしておく)