多夫多妻の生活

さて、最近、東大和の一夫多妻男の報道の影響でしょうか、一部マスコミで「一夫多妻こそカウンターカルチャー的な価値観だ」とでもいうような報道がおこなわれています。筆者が以前このサイトの日記でふれたように、カウンターカルチャーの運動家たちは一夫一婦制の結婚を否定することが多かったのですが、かといって彼らは一夫多妻制の結婚を行っていたというわけでもないようです。

ヒッピーたちがよく行っていた結婚とは、グループ結婚と言われるものでした。これは複数の男女同士が結婚してひとつの家族をつくるというもので、いわば「多夫多妻の結婚」というべきものです。このことは越智道雄の『アメリカ「60年代」への旅』にくわしいです。

やはり、カウンターカルチャーは平等にこだわるという基本理念がありますから、一夫一婦制を否定しても、かといって一夫多妻を認めていたというわけでもないようです。一夫多妻は、やはり一人の男性が複数の女性を所有するという点で平等主義とは程遠いものだといえますので。

このグループ結婚をした状態で、グループ内の男女が異性同士で全員で性的関係をもつ、というのが本来の意味でのフリーセックスだったようなのですが、これが90年代の国内マスコミでは相当に誤解されていたようにおもえます。

平等主義といえば、アメリカのカウンターカルチャーには、資本主義への反対運動と同時に、黒人差別への反対運動もおこりました。アメリカの黒人開放運動で有名なのはやはりキング牧師です。キング牧師といえば、「私には夢がある」という演説がよくしられています。

『私には夢がある M・Lキング説教・公演集』(新教出版社)によると、「私には夢がある」という言葉がでた1963年8月のリンカーン記念堂における演説では、結構「正義」ということばが頻繁につかわれています。
「私には夢がある。今、不正義と抑圧の炎熱に焼かれているミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わるだろうという夢が。」(103ページ)

この演説に限らず、キング牧師は演説で正義ということばをかなり多くつかっています。
「愛はキリスト教信仰の要の一つである。だがそこには正義というもう一つの側面がある。そして、その正義とは現実的利害関係において実現される愛のことだ。正義とは愛に対立するもの正す愛のことだ。(中略)愛の傍らには常に正義がある。」(24ページ)

「正義が一時的には打ち負かされたとしても、結局正義は勝ち誇った悪に優るのである。」(125ページ)

キング牧師のいう「闘い」とは、いわゆる絶対非暴力主義的なデモ運動などを意味しますが、そうはいっても、暴力で体制側に抵抗する当時の若者へは同情の念をいだいてもいました。
「社会変革は非暴力的活動を通して最も意味深いものになるという確信を抱きつつも、彼ら(火炎瓶やライフルをつかってベトナム反戦運動を行っていた若者)への同情の念を正直に吐露した。」(162ページ)

また、キング牧師は人種差別主義、極度の物質主義、軍国主義を「巨悪の三つ子」と呼んでいました(177ページ)。よく「人種差別は善と悪という概念によって起こる」などという人がいますが、実際に人種差別への抵抗をしていたキング牧師は人種差別を悪だといっています。

また、キング牧師は二ーチェを批判しています
「隣人への関心を部族や人種や階級や国家を越えたものへと引き上げる世界的連帯意識へのいざないは、実際はすべての人間に向けられた普遍的で無条件な愛への招きでもある。この愛はしばしば誤解され間違って解釈された概念であり、二ーチェのような人々によって惰弱で臆病なものとして簡単に排除されてきたものだが、しかし人類が存続していくために絶対不可欠なものとなっている。(180ページ)。」

日本の言論人は、いまだに二ーチェにしがみついているようにおもえます。昨今の幾多のミスリードの原因もこの辺にあるとおもえますが…。