ウェザーマンの予言

さて、前回からひきつづきですが、高度管理社会というものは(高度管理社会については前々前回の日記を参照)カウンターカルチャーから発祥したものを取り込んで、管理に利用するという性質があり、90年代の日本においては、ロックが高度管理社会に取り込まれたカウンターカルチャーだったといえます。(ロックを高度管理社会が取り込む過程をみせつけたのは「イカ天」ブームだったが、「イカ天」には「たま」のようなフォークロックもあったので、事実上フォークも高度管理社会に取り込まれた。)

筆者としては、90年代の恋愛ブームというのも、対抗文化に見せかけた高度管理社会の管理手段だったとおもえます。高度管理社会というのは、一見人間を物理的支配から開放したようにみせかけて競争社会の資本主義にふさわしい価値観を持った人間を社会に増やして、資本主義社会を管理していくものです。

90年代の恋愛ブームは、常に競争の要素がつきまといます。何人とセックスしたか、とか童貞喪失は何歳かということがとりただされ、セックスした相手が多いほど、童貞喪失が早いほど社会的ステータスとなることで人々を競争に駆り立てるというわけです。
そうして競争好きな人間が増えることによって、アメリカ政府の要請である郵政民営化も大衆はすんなりうけいれてしまい、日本を対米追従に導くのです。

本来カウンターカルチャーというのは、競争をなるだけ避けるもので、60年代~70年代のアメリカでは血縁による核家族が「出世主義、競争社会に通じる」として否定され、非血縁の拡大家族というものをつくることがヒッピーたちの間ではやりました。90年代の日本では、これが恋愛にとって代わり、「女にモテるためには出世しなくてはいけない」「お金もちにならなければもてない」と多くの男性を激しい競争にかりたてました。

恋愛が資本主義に通じるというのは、実はこの日記で何度か触れているアメリカの新左翼「ウェザーマン」たちがすでに指摘していたことだったのです。
『アシッド・ドリームズ』(第三書館)264ページによると、ウェザーマンたちの間では「恋愛感情は資本主義的なこだわり」としてご法度とされたそうです。では、セックスもしないのかというとそうではないのです。

『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』(彩流社)の555ページによると、ウェザーマンたちは、男女のカップルも命令により解体され、女と男、女と女、男と男、すべてが区別なく全員が全員と寝るという規則をつくったそうです。

メンバー全員が性的関係をもつという規則をつくってセックスするというのが、ウェザーマンのいうフリーセックスなのです。こういう規則をつくっても、ウェザーマンの女性メンバーらは自ら「一夫一婦制に対する勝利を喜ぶ文章を書いた(前掲書555ページ)」というのだから、フリーセックスというのは、やはり女性の側の意識がかわっていることが重要のようです。

なぜ同性同士で寝るようにまでしたのかというと、彼らはジェンダーの完全な否定を考えていて、その上でフリーセックスをしようとしていたからのようです。
同性でセックスしなくてはならない、という部分には筆者は抵抗を感じるものの、ある意味、大変平等な規則であり、モテない人でもほかの人と同じようにセックスができるという点では大変弱者にやさしい規則だったといえます。いわば義理チョコのセックス版というべきものでしょうか(笑)。

同性同士で寝るということは受け入れられなくても、この「メンバー全員とセックスする規則をつくる」というものに、ひそかに憧れをもった人もどこかにはいるのではないか(笑)とおもいます。これはモテない人に大変やさしい規則ですから。
これが「メンバーの異性同士が総当りでセックスする」という規則だったら、今の日本人でもあこがれる人(特に男性)は多くいるのではないかと思いますが…。

ウェザーマンのフリーセックスほど極端ではなくとも、本来のフリーセックスというのは、こういう平等主義的な価値観から派生したもののようなので「何人の女とセックスするか競争する」という、90年代の日本人が思っているようなものではないようです。つまり、女性も男性も「自分を求めてくる異性は好きではない相手でもなるだけ拒まずに、義理で一度ぐらいはセックスさせてあげる」ということのようなのですが…(ちがう?)。

ウェザーマンは「恋愛感情は資本主義的なこだわり」としましたが、これは『電波男』でいうところの「恋愛資本主義」に通じるといえます。ウェザーマンは90年代の日本の恋愛資本主義の台頭を予言していたというわけです(!)。

(ちなみに、ウェザーマンはウェザーメンという方が文法的には正確です。のちに女性メンバーへの配慮から「ウェザーアンダーグラウンド」に改称しました。)