対抗文化とりこみ現象

ここんとこずっとアメリカの60年代から70年代にかけてのカウンターカルチャー(対抗文化)についてふれていますが、カウンターカルチャーが対抗していたのは、いわゆる産業資本主義、別のいいかたをすれば高度管理社会の支配に対してでした。

高度管理社会については、この日記の2つ前に記事(最初アップしたときには変なタイトルつけちゃって反省)に詳しくかいていますが、この高度管理社会というのは、一見市民を物理的な支配から開放したようにみせかけるのがミソで、そのために、場合によっては、本来対抗文化から発祥したものを取り込んで支配に用いるのだそうです。このことは、越智道雄の著書『アメリカ「60年代」への旅』(p85、p263~265)や『アシッド・ドリーム』(p395など)に何度かふれられています。

筆者は、今の日本におけるロックは事実上、高度管理社会に取り込まれたものなのではないかと思います。90年代の「イカ天」ブームは、高度管理社会がロックを取り込んでいく過程だったのではないかとおもいます。本来、対抗文化というものは、資本主義に通じるとして競争は避けるのですが、「イカ天」では審査員が赤ランプをおして演奏を中断させることで出場者の競争心をあおるのです。そしてその競争に勝ち残ったバンドはプロデビューして、富と名声をえます。これは、ロックが産業資本主義にとりこまれ、そのうえでロックが高度管理社会の管理に利用されていったことを意味します。

そういえば、HP『ヒッピー達の一番暑かった夏』http://www.hfitz.com/hippie/index.htmlにも同様の記述がありました。
「しかし後にヒッピーたちの夢は幻想として打ち砕かれ、巨大な資本産業に彼ら自身、そしてロック自身も飲み込まれることになったのである。(中略)「ロックンロールはビジネス」となり、ミュージシャンはも はやサラリーマン同様、ヒット曲を作って生き残るか、淘汰されていくかとなった」
(HP『ヒッピー達の一番暑かった夏』トップページより引用)

今の日本において、ロックが対抗文化になりえていないのは、この「イカ天」ブームによってロックが高度管理社会に取り込まれていったからだとおもえます。そうなると、今の日本において本来の対抗文化たりえているのは、やはりマスコミ業界のアウトカーストの作家たちがつくったアニメや特撮ものといった映像作品だといえないでしょうか。
今の日本において、マスコミ業界の上位カーストの人間たちは高度管理社会の管理者たちであるから、マスコミ業界のアウトカーストの作家の作品を支持することは、それ自体が高度管理社会への抵抗を意味します。オタクがあまりロックに興味を示さないのは、それ自体が高度管理社会にたいする抵抗だといえるでしょう。

*追記06/2/11
イカ天に出場したバンドには、「たま」のようなフォーク・ロック・バンドもあり、とくに「たま」は非常にめだっていました。なので基本的にフォークも90年代の日本国内においては「対抗文化とりこみ現象」にあったと考えるべきでしょう。