トランプ大統領誕生とアメリカの保守主義(暫定版)

久々の更新です(まだ閉鎖してませんでした!)。

アメリカの大統領選でトランプがまさかの当選をしてしまい、
著名人や有名アーティストもこの選挙結果に不満を抱き
トランプへの反対運動などを行うなどアメリカは大荒れになっています。

この現象が「わからない」という人もいると思われますので、
そういう方々のために、なるだけわかりやすく解説しようと思います。

実は、トランプのスタンスは、
アメリカの本来の保守主義というものを体現していると言えます。
つまり、白人優遇で、その上で白人には権利の平等を与え、
その上で競争させて、不平等な結果が出ても自己責任、というもの。
同時に、ゲイ(同性愛者)を否定して、ゲイに関しては、
権利の平等を与えるどころか法律で罰するということまで言う。

これに対し、リバタリアンリバータリアン)という保守主義もありますが、
白人優遇を否定して、すべての人種やゲイにも平等に権利を与えて、
競争をさせて、競争で出た結果に不平等が出ても自己責任、というものです。

(前々からこのサイトで書いていますが、日本の大手マスコミは、
未だに、このリバタリアンリバータリアン
の思想を左翼思想と誤解したまま信じ込んでいるようです。
日本の大手マスコミは今回のトランプの当選で、
トランプが在日米軍を撤退するといっている人なのにもかかわらず、
アメリカで著名なアーティストなどが猛烈に反対しているということに戸惑いがあるようですが、
この件については、また落ち着いたら改めて書くかもしれません。
ちなみに東浩紀は数年前に、この勘違いを改めて自分はリバタリアンであると宣言しました。)

リベラリズム(一般的に言われる左派のリベラル)は、
白人優遇を否定して、すべての人種やゲイにも平等に権利を与えて、
競争をさせて、競争で出た結果に不平等が場合は、
自己責任ではなく、ある程度の結果の平等も保証する(所得の再分配をする)、
という思想になります。

権利の平等を与えて、競争の結果の平等は保証しない、
というのは極端な個人主義で、
これがアメリカの保守主義の資本主義(純粋な資本主義)の基本的な考え方です。

この考え方だと、社会に裕福層と貧困層という階層ができて、
この階層が、かつての封建社会の貴族と奴隷という階級に似てしまうので、
これを許すスタンスが資本主義の保守主義の最も典型的なスタンスとなります。

資本主義でも、競争の結果の平等もある程度は保証し、
所得格差が出た場合、税金として裕福層から所得を徴収し、
貧困層に所得を再分配をするのが、
社会主義的な資本主義ということになり、
このスタンスが「社会民主主義」「福祉国家」と言われます。

アメリカでは民主党が、この「社会民主主義」「福祉国家」を志向する政党であり、
それゆえに左派、と言われます。

そして、実は「社会民主主義」「福祉国家」というのが、
今の日本の本来の主義なのです。
というのも、日本国憲法を作ったのが、
民主党政権時代のアメリカだったからです(ルーズベルト政権)。

アメリカの共和党は、本来はトランプのような
「本来の保守主義」を志向する党なのですが、
民主党が人気があるため、やや民主党よりに変化しているのが近年までの傾向です。
(少なくともアイゼンハワー政権以降の)
民主党よりに変化しているアメリカの共和党を、
もっと本来のアメリカの保守主義に戻そう、というのがトランプで、
それゆえに、アメリカの田舎の方の州では支持が高いということになります。

アメリカの著名な芸能人やアーティストが、
みんなトランプの当選に反対しているのは、
アメリカの著名な芸能人やアーティストに左派、
つまり民主党支持者や、共和党の本来の保守主義
(前述の、貧困層に所得を再分配しない個人主義や、白人優先主義)
が嫌い、という人が多いからです。

貧困層に所得を再分配をするのが、なぜ社会主義的かというと、
そもそも社会主義共産主義)というのは、
個人の所得を否定して財産は全て共有とし、
それによって格差をなくして平等な社会を作るというものだからです。

その過程で、共産主義は一時的に独裁国家にして財産を全て国家が没収という
独裁主義の形態をとることがあり、北朝鮮や中国は、
この本来一時的なはずの独裁国家の形態が、ずっと続く国になってしまったことで
ああなっています。

ちなみに、共産主義でも一旦独裁国家にしないで、
財産を全て国家が没収する(徐々に税率を高くするなどして)、という考え方もあります。

一時的に独裁国家にして没収するのがマルクス主義で、
独裁国家にしないで没収するのがその他の共産主義
マルクス主義の元になった無政府共産主義)となります。
無政府共産主義の無政府とは、中央政権がなくなって、
市民が小さいコミューンで生活する、ということを無政府と言っています。
実は、マルクス主義も、最終的には独裁国家を自ら解体して
市民が小さいコミューンで生活するという状態を志向しています。

トランプはアメリカ国内が優先で、
海外のことは放っておく(基本、人道支援もしない)というスタンスで、
これは個人主義の延長に当たるナショナリズムで、
在日米軍を引き上げる、ということも言ったりするんですが、
そのかわり、自分の国は自分で守れ、という考え方ゆえに、
日本は核武装をしろ、といったりするのです。

白人優先主義も、自分が白人だからという個人主義の延長の白人優先主義なのです。
他の人種の人たちがどうなろうと、自分には関係ないから知ったこっちゃない、
というのが、個人主義の延長の白人優先主義で、トランプはこのスタンスです。

このあたりの事情は、佐々木毅アメリカの保守とリベラル (講談社学術文庫)』序盤や
副島隆彦『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』、
町山智浩越智道雄オバマショック』の前半部に詳しいのです。
(ただし、副島隆彦『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』は
著者の副島氏がリバタリアンなので、リバタリアンののスタンスで書かれているので注意が必要です)

やや話は逸れますが、町山智浩越智道雄共著『オバマ・ショック』(集英社新書)は
日本で誤解されていることの多いアメリカの保守とリベラルの本来の性質を説明しながら、
2008年のアメリカのサブプライムローンの破綻による金融不安から、
オバマ大統領の誕生までを解説した本ですが、
そういえば『内向型人間の時代』(講談社)によると、サブプライムローンの破綻は
外交型の投資家たちの強気な投資が原因ということが書かれていました。

『内向型人間の時代』によれば、
進化論的にも「内向性は人類のためになるために生き残ってきたはず(p22)」とし、
その上で、2008年のウォール街の大暴落(サブプライムローンの破綻)
は、押しの強い外向型の投資家たちが発言力を持ったのが原因、と分析されています(p207~210)。
そして内向型の投資家は、その慎重さ故に2008年の暴落以降でも損することなく、
逆に利益を得ていたそうです(p222~226)。

こういう説があると、進化論的にも内向的な性格は、本来は優秀な種の1つと言えると思うのですが、
これを否定して、内向型の人間をバカにする流行を仕掛けずつけた日本の大手マスコミと、
その影響を受けた大衆は、日本を危険な方向に導いているのかもしれません。

この『内向型人間の時代』によると、スピルバーグ(p9)やアインシュタイン(p216)
も内向的だったとあります。

 * * *
日本でのイジメの原因は、内向的な人をいじめる流行がずっと続いたことが原因と思われます。
詳細は下記のリンク先のブログの記事をどうぞ。
*ブログ「ワンダばステーション日記帳」内「いじめの原因も内向型人間への差別」

wandaba2019.hatenablog.com

「これからの「正義」の話をしよう」文庫版がロングセラーに(タイムボカン24、シン・ゴジラにも触れています)

イメージ 1

さて、久々の更新です。

タイムボカンの新作『タイムボカン24』がやりますが、
今回は、大河原邦男は参加しますが、山本正之天野喜孝は参加しないようですね。
特に、山本正之が不参加ということは、こちらのまとめサイトが詳しいです。

*「山本正之先生が「タイムボカン24」にノータッチであることが判明」
http://bokan24.com/archives/6764176.html

山本正之は実写のヤッターマンの方は、他の作曲家と共同ではありますが参加してるんですけどね。
天野喜孝は実写のヤッターマンには参加していたと勘違いしてましたが、
調べたら寺田克也の間違いでした(笑)。
寺田克也もゲームの方で有名になった人なのでゴッチャになりました。

天野喜孝は、ファイナルファンタジーのキャラクターデザインをやってましたね。
ファイナルファンタジーのキャラクターも、キャラクター自体は
ポリゴンCGにすると、タツノコ時代の雰囲気が少し残っている感じがしますね。

天野喜孝本人のこの時期の絵は、もう今の幽霊みたいな絵柄になっちゃっていた頃なので、
ポリゴンCGやコスプレ衣装にした時の方がどういうデザインかがよくわかります。
しかし、あの絵柄になってから、あんなに有名になるとは思わなかったです。

ファイナルファンタジーは内容的には、一応世界を救うという話らしいのですが、
発表したのが90年代で、いわゆる自分が批判している
ニューアカデミズム(フランス現代思想)の日本でのブームを反映しているようなところが
細部にあるようなので、あんまり好きじゃないですね。
ゲーム自体があんまり好きじゃないですが。

特に、ファイナルファンタジー4で、正義という言葉か概念を否定するようなセリフがあるのが気になります。
(プレイの進行具合ではでてこない場合もあるそうですが)

「正義よりも正しいことよりも、大事なことがある。 いつかわかる時がくる。」というセリフですね。
下記のサイトを参照。

*「ファイナルファンタジー用語辞典 Wi」
http://ffdic.wikiwiki.jp/?%A5%BB%A5%EA%A5%D5%2F%A1%DA%C0%B5%B5%C1%A4%E8%A4%EA%A4%E2%C0%B5%A4%B7%A4%A4%A4%B3%A4%C8%A4%E8%A4%EA%A4%E2%A1%A2%C2%E7%BB%F6%A4%CA%A4%B3%A4%C8%A4%AC%A4%A2%A4%EB%A1%A3%20%A4%A4%A4%C4%A4%AB%A4%EF%A4%AB%A4%EB%BB%FE%A4%AC%A4%AF%A4%EB%A1%A3%20%A1%DB

(リンク先のサイトでの議論を見てのとおり、ファンの間では、
このセリフを正義という言葉か概念を否定していないような意味に解釈するという見方もあるようですが。)

この日本でニューアカデミズムが流行った90年代は、本当は海外では
フランス現代思想の代表的な学者のデリダが『法の力』という本で「脱構築は正義なのだ」ということを書いて、
事実上、それまで言っていた「脱構築」を撤回するようなことを言っていたので、
今となっては通用しない部分もあると思います。
ファイナルファンタジー4は91年、デリダ『法の力』は94年と、『法の力』の方が数年あとですが)

デリダ脱構築を正義といっていたことや、
ロールズの正義の原理などから考えても、対立する勢力の争いが泥沼化した場合は、
うまく両者をなだめて状況を安定させるのも、法哲学的には本来は正義ということになるはずなのですが、
なぜかこういう視点が国内の大手マスコミに出てくる文化人たちにはないのが不思議です。
ファイナルファンタジー4の先のセリフも、ゲームの内容から考えると、
そういう大手マスコミの文化人たちに影響を受けたもののようです。

そういえば、サンデルの「これからの「正義」の話をしよう」が文庫化されて、
アマゾンでは現在も「イギリス・アメリカの思想」というカテゴリーでベストセラーになっていますね。
この本で、リベラリズムの代表的な学者のロールズの名前が日本に知れ渡ったのは本当に良かった。
(逆に、それまで日本で全然知られてなかったのが異常です)
ロールズの代表的な本の『正義論』も、早く文庫化されることを期待します。

話は変わって、シン・ゴジラが大ヒット中ですが、
単なる初代ゴジラのリメイクかと思いきや、
ゴジラの設定が別の怪獣かと思えるほどに変更してあり、
原点回帰のようで原点回帰ではない不思議な作品になっていますね。
全体的には政界を風刺した感じの政治劇で、なかなか楽しめました。

シン・ゴジラを見に行った時、
仕事関係の友人たちと見に行ったのですが、
その中で、今まで全然ゴジラを見たことがない、という女子(30代)がいて、
見終わった後に、「今までのゴジラシリーズも見たくなった」と言っていました。
作品の中に、今までのゴジラシリーズのいろいろなオマージュが入っている、
という話をネットなどで読んだそうで、音楽も一部昭和ゴジラの音楽を使っていたのは
気づいたようで、そういう作品に入っている小ネタがわかるようになりたい、
と言っていました。

こういうように、それまで国産の特撮物やアニメを見ていない人が、
旧作にも興味を持ってもらえるようになる、というのが、
理想的な状況だと思えるのですが、大手マスコミの批評家や編集マンなどは、
それまでの国産の特撮物やアニメを見ていた人たちを叩きたくてしょうがない、
というのがあるようで疑問が残ります。

ゴジラが初めて一番ゴジラらしい形の第四形態になって出てくる時の
音楽が、メカゴジラの逆襲の時のゴジラのテーマの流用(途中で電子楽器の音が入るもの)
だったのには驚きました。

思えば、ゴジラの秘密を研究し解明しながら、世間を憎んでいたために、
資料をわざとわかりにくくして世間に復讐をしようとしていた
という牧博士の設定は、メカゴジラの逆襲の真船博士のイメージが入っているのかもしれません。

あと今回のゴジラは、海底の放射性廃棄物を食べて成長したという設定で、
4段階に変形する上に、飛行能力もえるかも、と言われていたりするところは、
かなりヘドラに似ていると思います。

最初は、なかなかゴジラの存在を世間が信じないというところや、
逃げ遅れた人を救うために攻撃を中止するところ、
ゴジラを倒すために東京にアメリカが核攻撃をしようとするところは、
帰ってきたウルトラマングドンツインテール編のオマージュっぽいですね。

庵野秀明は、シン・ゴジラを作る際に「自分の専門はウルトラマンであってゴジラではない」
と発言していたそうで、このことや、近年のウルトラの新作の視聴率が低迷していること、
シン・ゴジラの大ヒットを受けて、円谷が庵野秀明に新作ウルトラの制作を依頼する
という可能性も、ないともいえない状況になってきたように思います。

庵野秀明がウルトラを本当に作ることになった場合、
ウルトラマンタロウは面白いので見てください」と言ったり、
「レオの良さは大人になってからわかった」と発言していた、
エヴァ1作目(テレビシリーズ)を作った直後のようなスタンスのままで、
作ってくれることを切に願います。

実は、最近まで知らなかったのですが、庵野秀明団時朗の対談というのが、
WOWOWのミニ番組であったんですね。
この時も、庵野秀明は「帰ってきたウルトラマン」について
「ドラマとしては、この番組が一番好きです。カメラが凝っているし、画面もすごく良かった」
と言っていたそうです。

*「庵野秀明監督「帰ってきたウルトラマン団時朗と対面!ミニ番組でウルトラ愛炸裂!」
http://www.cinematoday.jp/page/N0058479

 * * *
日本でのイジメの原因は、内向的な人をいじめる流行がずっと続いたことが原因と思われます。
詳細は下記のリンク先のブログの記事をどうぞ。
*ブログ「ワンダばステーション日記帳」内「いじめの原因も内向型人間への差別」

wandaba2019.hatenablog.com



#ウルトラマンオーブ #14話 #暴走する正義

スーパー戦隊の活動には公益性がある

先日のハフィントンポストの記事に面白いものがありました。
スーパー戦隊の活躍に公益性はあるか、ということを、
NPO法人の理事2人が話し合うというもので、
ここでは、ちゃんと公益性がある、という結論になっています。

『パパ、スーパー戦隊は仕事なの?「スーパー戦隊と公共性」』(2016年04月28日 ハフィントンポスト)
http://www.huffingtonpost.jp/kei-kudo/super-sentai-job_b_9791758.html

(この記事でスーパー戦隊の活躍の公益性について話しあったのは、
NPO法人シーズ・市民活動を支える制度をつくる会代表理事関口宏聡氏と
NPO法人ソーシャルベンチャー・パートナーズ東京」代表理事岡本拓也氏です。)

この「スーパー戦隊の活動(ひいてはスーパーヒーローの活動)に公益性はある」ということは、
今まで、自分が10年ぐらい前からずっと言い続けていたことですね。
こういう専門的な人からも同じ意見が出ました。

以下『パパ、スーパー戦隊は仕事なの?「スーパー戦隊と公共性」』(2016年04月28日 ハフィントンポスト)の記事中から、「スーパー戦隊の活動の公益性」について言及している部分を引用します。

(引用ここから)
関口さん:結論から言えば、公益性はあると思います。受益者が不特定多数で、ひとをえり好みしません。子どもだから助けるとか、大人は助けないということではなく、みんなを助けています。限りなく公平に助けている意味においては行政に近いと思います。

岡本さん:私も公益性があると考えます。シリーズによりますが、彼らが初めから世界平和を目的に始めたというわけではないでしょう。突然、街中に敵が現れ、戦わないと人類が滅亡するわけです。望む、望まないにかかわらず、巻き込まれた人間として覚悟を決める。その瞬間、ミッションが生まれるわけです。
社会課題の解決は、その課題に気がついた個人から始まるのです。
(引用ここまで)

そのあとこの記事では、スーパー戦隊の活動が、やや暴力での解決を優先することへ批判している箇所も若干はありますが、
戦隊ヒーローの活動は、
「ひとをえり好みしません」「限りなく公平に助けている」
「戦わないと人類が滅亡するわけです。望む、望まないにかかわらず、巻き込まれた人間として覚悟を決める。その瞬間、ミッションが生まれる(社会課題の解決の課題に気がつく)」
という点で、この2人は公益性のある活動と認めています。

ここで面白いのは、この2人が語っているスーパー戦隊というのは、
明らかに彼らが子どもの時に見た、昭和の戦隊か、または昭和のノリが残っていた90年代の戦隊について
語っていることです(1人はサンバルカンあたりを見ていたそうで、もう1人はジュウレンジャーターボレンジャーを見ていたそうです)。

記事の中では、子どもが今の戦隊にハマっているから、ということから話が始まっていますが、
最近の戦隊を始めとする東映ヒーローが、限りなく公平に助けるということや、
人類を救うという使命を否定して作品を作っているということに気づいていない
(おそらく子どもの横でチラチラ見てるだけでちゃんと内容を見ていない)で語っているという点です。

この2人の言っている、
「ひとをえり好みしません」「限りなく公平に助けている」
「戦わないと人類が滅亡するわけです。望む、望まないにかかわらず、巻き込まれた人間として覚悟を決める。その瞬間、ミッションが生まれる(社会課題の解決の課題に気がつく)」
というのは、明らかに、今の東映ヒーローではなく、
この2人がよく見ていたサンバルカンターボレンジャーあたりのかつての東映ヒーローの行動原理ですね。

改めて、最近の東映ヒーローが、こう言った「公益性」というものを
否定して作品を作り続けることに憤りを感じます。
特に白倉伸一郎プロデュースの作品は、公益性のある言動をしている人物を、わざと嫌な奴扱いで出したりしますし、
白倉伸一郎プロデュース作品以外でも、ボウケンジャーでは、そう言った公益性を主人公が軽蔑して否定するセリフをわざと入れたり、
本当に目を覆うばかりです。
こう言ったことが頂点に達したのが、ゴウカイジャーの時に東北の震災が起こって、
ゴウカイジャーたちは自分の利益のためだけに戦うという設定であったが故に、
被災した子どもへ応援メッセージを送らなかった(設定と矛盾するため送れなかった)ということですね。

公益性、公共性を否定するのは、リバタリアニズムです。リバタリアニズムは保守思想の一種で自分と家族ないし内輪の人間だけ守れは他は知らない、という西部開拓時代のアメリカの農民の思想です。リバタリアニズムの価値観が絶対化されて、それに疑問を持つ人間を罵倒して排除する社会というのは、とても多元主義の社会とはいえません。

*後日追記(2021.7.27)
仮面ライダーバイスは、発表された設定を見ると、どうやら家族と実家の銭湯しか守らないという設定らしいですね。ここ数年は、やっと「世界を守る」という内容に戻ってきた傾向があったのですが、また公共性、公益性を否定する路線に戻そうとしているようです。今、行われているSDGsにも「誰一人取り残さない社会」という目標があり、これも公益性、公共性を重視する社会を目指すという目標なのですが、こういった時代性に反しているのも疑問です。

仮面ライダーバイスの実家の銭湯は、土地の再開発のために立ち退きを迫られているという設定らしいですが、立ち退き問題について、下記の過去の日記『「住人立ち退き問題」への誤解?』で触れていますのでご覧ください。

wandaba2019.hatenablog.com

 

昭和のヒーローは、その活動に「世界を守る」「人類を守る」「地球を守る」といった公共性、公益性がありました。いくら、レトロな舞台設定で物語を展開しても、旧作のキャラクターを出しても、この公共性、公益性を否定してしまっては「昭和をリスペクトしている」とはいえないと思います。こういった公共性、公益性は、ジョン・レノンの歌『イマジン』の歌詞「人は皆兄弟なのさ」に通じると思います。このことについても過去の日記『愛こそすべての愛とは』(2007-12-09)で触れています。

wandaba2019.hatenablog.com

 
ちなみに、自分がこう言った「変身ヒーローの公益性(公共性)」について述べている
親サイト『ワンダバステーション』の文章です。10年近く前に書いたものです。未読の方はどうぞ。

*『作品研究1 70年代カルチャー第二期ウルトラを総括せよ!』
http://wandaba.html.xdomain.jp/page3.html

個人的には、この『パパ、スーパー戦隊は仕事なの?「スーパー戦隊と公共性」』の記事を、
小林義明率いる自由メディアが自由メディア公式FBページで紹介していたのが、さらに嬉しいことでありました。

 (後日追記 2021.9.2)

今、改めて仮面ライダーバイステレビ朝日の公式のHPをみたら

「一輝は家族を守るために運命に抗い、仮面ライダーに変身。その決意は家族だけでなくやがては人類の未来をも救っていきます。」との一文が追加されていました。

ひとまずは安心といったところですが、平成になってからの東映は、
番組の最初の頃は「人類を救う」といっていながらも、途中から突然主人公が考えを変えて「好きな人や自分の夢だけのために戦う」と思想転向をする『ボウケンジャー』のような例もあるため、そういった事態にはなって欲しくないとの願いを込めて上の文言はあえてそのまま残しました。

www.tv-asahi.co.jp

いじめの原因も内向型人間への差別

自分は思うのですが、日本でイジメが多い原因というのは、
80年代以降、内向型の性格の人がネクラとよばれて
マスコミで迫害され、
その流行がずっと現在まで、形をかえてつづいていることが原因とおもいます。

虐められっこというのは、内向型の性格の子どもであることがほとんどですが、
このことが、それを証明していることとおもいます。

内向型の人は、80年代はネクラといわれて迫害されましたが、
90年代には小心者という言葉にかわり、引き続き迫害され、
その後は「きもちわるい人」とか「コミュ障」といわれて、
現在も迫害されつづけています。

90年代あたりからの日本では、大手マスコミにでてくる有識者の意見に
内向型の人間を「自己愛的」などといって批判するものがおおいです。

しかし、本来、内向型というのは、人間の人格としてみとめられなくてはならないのです。
古くはユングも、『心理学的類型』や『タイプ論』といった著書で、
内向型の人間を「自己愛的」とする見解は根本的に間違っている、といっています。
(『心理学的類型』(中央公論)p124、『タイプ論』(みすず書房)p403)

最近、アメリカの本で『内向型人間の時代』(講談社)という本がでましたが、
この本では、内向型の人間の長所や、外向型の人間の短所がかかれている本で、
アメリカではベストセラーになりました。

内向型の人間のことを「ゲームやアニメの影響」などとする論調は最も間違っているものです。
ユングが著書でふれているぐらいですから、
内向型の人間というのは、大昔から世界中にいたのです。

『内向型人間の時代』でば、内向型の性格というのは、脳の組織によって生まれもってきまっている、ということが、科学的なデータをもとに語られています(148~150、204~208ページ
ユングも『タイプ論』で「内向的な性格は遺伝的なもの」という見解をしめしております(p405)。

内向型の人間を迫害する流行に歯止めをかけるよう、
大手マスコミに働きかけないかぎり、
イジメはなくならないとおもいます。
自分のこの意見が、そういった動きを生むことを期待いたします。

「自信をもて」も内向型人間への差別

イメージ 1

久々の更新です。

ここでずっと自分が書いている
今の日本における、内向型人間への差別の問題ですが、
「自信をもて」という言説、自信がない人間は何をやってもダメという類いの意見も、
内向型の人間への差別の一種ではないか、と思えるのです。

「自信をもて」というようなことがビジネスや恋愛でよくいわれますが、
この「自信をもて」という類いの意見も、
内向型の人間への差別ではないかとおもうのです。

ユングも定義しているように、
自信がない、というのも内向型の性格の特徴のひとつです。
宮城音弥著『精神分析入門』(岩波新書)p180には、ユングによって行われた
内向型と外向型の人間の分析が表で紹介されており、
ここでは内向型の表に、内向型の性格の特徴として、
「自信が強くない」という項目があります。
(画像を添付します)

スーザン・ケイン著『内向型人間の時代』(講談社)でも、
こういったユングの分析をもとにして
内向型の人格を定義したうえで話をすすめているので、
内向型の人は自信の弱い人間であり、
外向型は自信が強い人間であるという前提で話がすすんでいます。

例としては、あるビジネススクールで、内向型の生徒が、
自信家のように振る舞うように学校側から強要されて悩むという話や(p63~68)、
外向型の人間の欠点として自信過剰ゆえに失敗する話(p206)がでてきます。

なので、今の日本でよくいわれている、
自信がない人に低い評価をくだす類いの言説、
ビジネスの世界で自信のない話し方する人間はダメというような意見や、
恋愛において、自信のない態度の男性はモテない(女性に避けられる)、というのは、
内向型の性格の人間への差別にあたるとおもえます。

こういうことがおこっているのは、
80年代にネクラという言葉がはやって、
内向型の人間が差別される流行がずっとつづいている、
日本ではとくに顕著とおもわれます。

とくに、恋愛については、こういったことで女性が男性をさける、
ということは海外ではないらしく、
『内向型人間の時代』において、男性が女性にモテるために
自信家のように振る舞うように周囲から強要される、という話はでてこないです。

他の本ではマーティ・O・レイニー著『内向型を強みにする』(パンローリング株式会社)という本で、
内向型男性と外向型女性のカップルの話がでてくるのですがが、
日本では、この組み合わせでカップルになることはありえません。
(あったとしても、希なケースです)
今の日本では、会った瞬間に女性が内向型の男性を「きもちわるい」と避けるため、
まず交際にまで至らないです。
(今の日本での少子化の問題は、やはりここにあるとおもいます)

 * * *

アメリカでも3分の1は内向型と
『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力』(6ページ)と
『内向型を強みにする』(12ページ)で指摘されてます。

上記の2冊の本では、内向型の人というのは、脳の働きが外向型の人と違い、
無理に外交的にふるまうのは事実上無理であるということが、
科学的なデータをもとに書かれています
(『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力』148~150、204~208ページ、
『内向型を強みにする』62ページ~)。

日本では、ながらく内向型の性格は一種の病気であるという認識が定着してますが、
これは誤解です。
内向型の性格の人というのはユングも自著でふれているように昔から世界中にいます。

日本で虐められっ子というのは大概、内向的な性格の子どもですが、
このことは、この日本で80年代以降、
ずっとつづいている内向型を罵倒する流行と密接に関係があるとおもいます。

このことについて触れた過去の日記です。未読の方はどうぞ。
「生きづらさの原因は内向型人間への差別では」
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/65007306.html
「内向型人間への差別は自殺増加の原因では」
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/64986789.html
非モテ問題も内向型人間への差別が原因」
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/65024420.html

ガンダムは「ミリタリーロボットアニメ」

2015年11月13日に、パリで連続テロがおこり、
多くの人命が失われました。

このテロの報復として、フランスはまた
シリア領内にある過激派組織「イスラム国」の拠点を空爆したそうで、
この報復によって、また多くの犠牲が生まれたとおもいます。

この一連のテロと空爆で失われた人命に、
深く哀悼の意を表します。

ここで、こういった話にもっていくのは
いささか不謹慎かともおもうのですが、
最近、現実にロボット兵器というものが開発されて実戦にも投入されていますが、
これらの実際の戦争のロボット兵器というのは、
ガンダムと、ガンダムを発端にしてでてきた所謂
「リアルロボットアニメ」といわれる作品にでてくるロボットと違い、
ほとんどが、無人の遠隔操作なのですが、
そうなると「リアルロボットアニメ」は、はたして本当に「リアル」なのか、
という問題がでてきます。

最近、現実に開発されているロボット兵器というのは、
まず、味方の兵士をなるべく戦場にいかせたくない、
という発想から開発がはじまっており、
無人偵察機無人爆撃機から、ドローン、バイクなどを操縦するロボットなど、
なるだけ、人を直接戦場におくらないようにする、
という発想から開発がはじまっているのですが、
ガンダムには、そういう発想がなく、
ほぼすべて有人のロボットです。
この点からも、現実のロボット兵器の開発の動機からは、
かなりかけ離れており現実的とはいえないとおもいます。

こういう点からいうと、敵ロボットについては、
実はマジンガーZの路線の敵ロボットのほうが、
遠隔操作がほとんどで、実は現実のロボット兵器に近かったということが
いえるとおもいます。

富野喜幸ガンダムをつくるにあたって
仮想敵にしたのはヤマトとマジンガーZのシリーズ(の時間帯のロボットアニメ)でしたが、
マジンガーZのシリーズ(と、その後継番組)というのは、意外と、
毎回倒される敵ロボットは無人の遠隔操作のものがおおいのです。
有人になったのは、ダンガードAのメカサタンからですね。

ガンダム以前のロボットアニメのほうが、
毎回無人のロボットを破壊しておわっているので、
殺人は行っていないので、毎回有人のロボットを破壊して
殺人をおこなっているガンダムのシリーズにくらべて、
実はかなり平和的だったとおもえたりします。

この間、ある宇宙飛行士が、宇宙で活躍するロボットにも
足は必要、ということをいったのも、
ミノフスキー粒子の設定にミソがついた形になりましたし、
だんだん、ガンダムがリアルではなくなってしまって現在に至っているとおもいます。

リアルロボットアニメというのは、
本来、ミリタリーロボットアニメ、というように、
呼び方を変えるべきじゃないかと思えるときがあります。

ガンダムには、かなりカラフルで奇抜なデザインの
モビルスーツがたくさん出ますが、
ああいうのは実際にはありえないですから、
設定やストーリーで軍用兵器っぽいスペックをつけたりしたのが
新しいといえば新しかったということぐらいで、
本当の意味ではリアルではなかったとおもいます。

先のパリのテロは、フランスでのアラブ系移民が
フランスでは差別されており、
以前の風刺画をめぐったテロもふくめて、
フランスで立て続けにこういったテロが起こる背景には、
フランスでのアラブ系移民への差別があるのでは、
という見方もあります。

上原正三が、こないだの帰ってきたウルトラマンのムック
『キャラクター大全 帰ってきたウルトラマン
の記述式インタビューで
怪獣使いと少年について、在日朝鮮人への差別を批判したものである、
ということを明言したのは大変意義があったとおもいます。

おもえば、このことについて、商業出版物で本人の口から語られたのは、
これが初でした。

安倍政権が、ヘイトスピーチを事実上推進して、
メディアの大物を接待づけにして丸め込んで、
アンチレイシズム的なことが大手メディアでいえなくなっているなかで、
あの上原氏の発言は、大変勇気があったとおもいます。
あの発言だけでも、あの本は価値のある本でした。

上原氏の先のインタビューでは、
関東大震災のときに、日本人でも日本語の発音がおかしい場合は、
朝鮮人だと疑われて殺された、という話がでてました。
80年代からいままで、内向的な性格の人間は、
同じ日本人なのに差別されて、社会的に抹殺されて現在にいたっていますが、
これと似たようなものを感じますね。

 * * *

アメリカでも3分の1は内向型と
『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力』(6ページ)と
『内向型を強みにする』(12ページ)で指摘されてます。

上記の2冊の本では、内向型の人というのは、脳の働きが外向型の人と違い、
無理に外交的にふるまうのは事実上無理であるということが、
科学的なデータをもとに書かれています
(『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力』148~150、204~208ページ、
『内向型を強みにする』62ページ~)。

日本では、ながらく内向型の性格は一種の病気であるという認識が定着してますが、
これは誤解です。
内向型の性格の人というのはユングも自著でふれているように昔から世界中にいます。

日本で虐められっ子というのは大概、内向的な性格の子どもですが、
このことは、この日本で80年代以降、
ずっとつづいている内向型を罵倒する流行と密接に関係があるとおもいます。

このことについて触れた過去の日記です。未読の方はどうぞ。
「生きづらさの原因は内向型人間への差別では」
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/65007306.html
「内向型人間への差別は自殺増加の原因では」
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/64986789.html
非モテ問題も内向型人間への差別が原因」
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/65024420.html

安保関連法案に半旗をひるがえした著名タレント!

久々の更新です。

ついに、芸能人が安保法案を公然と批判し始めました。
『<安保関連法案>「芸能界でタブー」超え主張始めたタレント』
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150915-00000088-mai-soci

しかし、この記事を呼んでびっくりなのは、
松本人志が安保法案支持なことですね。
切り返した中居正広はえらいです。

話はかわりますが、
古尾谷雅人主演の、『若草学園物語』は、80年代初頭につくられた
自閉症児を積極的にうけいれた私立小学校のドラマでした。
80年代初頭には、まだこんな作品がつくられていたんですね。
大変恥ずかしながら、最近までしりませんでした。

ところが、それ以降になると、ネクラという言葉がはやって、
日本国内ではそういった作品が全くつくられなくなってしまいました。

これこそ、逆にいえば「自閉症児に同情的な作品をつくってはいけない」
という表現の自主規制の一種ですね。

これは「今はそういう流行だから」という言説で
業界内部で逆方向の自主規制のようなことを「流行」の名の下に行ったといえます。
弱者にやさしく、ということのための表現の自主規制だと、
業界は反発しますが、「流行にのりおくれる」「時代おくれ」という
業界人としてのプライドを守るための表現の自主規制は、
喜んで受け入れるという傾向があるようです。
こういう、「流行に合致させるため」の表現の自主規制というのは、
無自覚で行われるので大変こわいとおもえます。

差別を助長するというのは、
差別するようなテーマを感じる物語のつくり方をしているかです。
そういう描き方をしていなければ、差別表現にはなりません。

表現規制そのものを反対する考えをもっている近年の一部の国内の業界の人間たちは、
そういう話になると、すぐにニーチェニヒリズムをだしてきて、
表現に「線引きはできない」といって、自閉症児を題材にしたドラマそのものがつくれなくなる、
というようなことを言い出す傾向がありますが、
こういう意見はおかしいものです。

日本以上に差別表現についてうるさいアメリカですが、
だからといって、アメリカのハリウッド映画が表現が萎縮しているかといえば、
別段そんなことはなく、自閉症を扱った映画『レインマン』もハリウッド映画ですから、
そうやって表現規制を嫌がる日本の一部の業界人のいっていることは、
いいわけの一種のようなものでしょう。

 * * *

アメリカでも3分の1は内向型と
『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力』(6ページ)と
『内向型を強みにする』(12ページ)で指摘されてます。

上記の2冊の本では、内向型の人というのは、脳の働きが外向型の人と違い、
無理に外交的にふるまうのは事実上無理であるということが、
科学的なデータをもとに書かれています
(『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力』148~150、204~208ページ、
『内向型を強みにする』62ページ~)。

日本では、ながらく内向型の性格は一種の病気であるという認識が定着してますが、
これは誤解です。
日本で虐められっ子というのは大概、内向的な性格の子どもですが、
このことは、この日本で80年代以降、
ずっとつづいている内向型を罵倒する流行と密接に関係があるとおもいます。

このことについて触れた過去の日記です。未読の方はどうぞ。
「生きづらさの原因は内向型人間への差別では」
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/65007306.html
「内向型人間への差別は自殺増加の原因では」
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/64986789.html
非モテ問題も内向型人間への差別が原因」
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/65024420.html