幻の21章についての補足

さて、前々回からのつづきですが、『時計じかけのオレンジ』の映画は、実は原作小説の重要な部分をカットしたまま映画にしてしまい、原作者のバージェスが批判していたということをかきました。

時計じかけのオレンジ』は、原作ではラストに主人公の少年は改心するので、実は犯罪者の側の人権擁護をテーマとした作品であり、けっして暴力を賛美している作品ではなかったのです。この部分は、おおくの日本人はしらないんじゃないでしょうか。

*参考『幻の21章をもとめて』
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/53921891.html

ついでに、映画版の『時計じかけのオレンジ』は、本当は監督のキューブリック自身がイギリスで上映禁止をしたのです。このことはウィキペディアの『時計じかけのオレンジ』にもふれていますが、この情報の出典といえる書籍を紹介します。

といっても、そんなにめずらしい本ではなく、スタンリー・キューブリックの評伝としては、今もっとも入手しやすい『映画監督スタンリー・キューブリック』(晶文社)に、ちゃんと書いてあります。

「一九七四年、『時計じかけのオレンジ』のせいで起きる現実の暴力を憂慮したキューブリックは、イギリスにおける配給を、自主規制の形で止めた。キューブリックは、『時計じかけのオレンジ』がイギリスのいかなるところで上映されてもそれを違法とし、配給をとめるようにワーナーに頼んだ。(331ページ)」

こういうことは、おおくの日本人がしらないことでしょう。とくに90年代において、この映画版『時計じかけのオレンジ』は「犯罪を賛美する作品」として理解され、絶対的に高い評価をうけ、それが固定化し、現在にいたっているのが現状といえます。

また、映画版の『時計じかけのオレンジ』に原作者が批判的だったことについても、今入手可能な本のなかでふれているものがあります。前に紹介した『バージェス全集版』の『時計じかけオレンジ』の「訳者あとがき」ほどくわしくはないですが、ポール・ダンカン/著『スタンリー・キューブリック全作品』(タッシェン・ジャパン)の136ページにも、数行ですが、バージェスが映画版を批判したことがかかれてあります。
この本によると、バージェスは、映画版のラストが原作とことなることに対し、作品のテーマが「罪を犯そうとする衝動の賛美へとすりかえられている」と批判していたとあります。

このように、現在入手可能な本においても、実は『時計じかけのオレンジ』という映画は、結末が原作とことなり、それに原作者が批判的であったこと、また監督も最終的には上映を禁止したことが書かれてあります。

犯罪の賛美というのは、極端な個人主義ですから、これが資本主義につうじるのは、このサイトで何度も書いていることです。こういう犯罪を賛美する思想はスティルナー主義(シュティルナー主義)に通じ、このスティルナー主義は、リバタリアニズムという、資本主義の全面肯定論につうじ、これはアメリカの保守主義の一種であることも何度かふれました。

このことについて親サイト『ワンダバステーション』の『ニーチェと少年犯罪への一考察』の
アナーキズムニーチェ』の項でくわしくふれています。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/8352/niitye.html

ちなみにスティルナー主義がリバタリアニズムの一種であることについてふれている本としては、森村進の『リバタリアニズム読本』(勁草書房)があります。この本の102ページからスティルナー主義についての説明があります。

90年代の日本の文化人たちは、ことあるごとに『時計じかけのオレンジ』をもちだして、スティルナー主義か、それに通じるリバタリアニズム的な極端な個人主義を賞賛しました。大衆は、そういう文化人たちに扇動されて、こういう個人主義を絶対的な価値観と思い込み、こういう価値観は90年代の日本人に大流行し「当たり前の価値観」となりました。

「ハロー効果」という心理学用語があります。これは、権威のある人間が何か語ると、それが例え「間違っていること」だったとしても一般の人は「その発言が正しい」と思いこんでしまう効果の事です。
「ハロー効果」は『大辞林第二版』(三省堂)によると「人や事物のある一つの特徴について良い(ないしは悪い)印象を受けると、その人・事物の他のすべての特徴も実際以上に高く(ないしは低く)評価する現象。後光効果。光背効果。」とあります。

そうなると、文化人のいうことを一般人が信じやすいというのは心理学的に証明されていることになる。マスコミでの文化人の発言は大衆を扇動する強い影響力を社会の中でもっているといえ、その彼らが『時計じかけのオレンジ』を「犯罪を賛美した作品」と勘違いしたままマスコミでこの映画を高く評価したとなると、文化人が殺人を賞賛したことと同じことになり、ハロー効果によって、その発言は市民を扇動する力があるでしょう。これが近年の犯罪の増加の原因のひとつのなっている可能性は高いとおもいます。

90年代の日本の文化人たちは『時計じかけのオレンジ』を引き合いにだして、スティルナー主義ないしリバタリアニズム的な極端な個人主義を流行らせました。そして、こういう90年代の流行の価値観に異論をとなえる人間は、徹底的に迫害されて排除されるようになっていきました。90年代の日本は、リバタリアニズムのような資本主義が絶対化されたブルジョア民主の時代になって、現在にいたっています。

小泉政権解散総選挙の際に、郵政民営化を大衆が支持してしまったのは、90年代の文化人たちによってリバタリアニズムのような価値観が市民にすりこまれていたことが元凶だといえます。90年代の文化人たちは、『時計じかけのオレンジ』をもちだしてスティルナー主義か、それに通じるリバタリアニズム的な極端な個人主義を賞賛したのですから、郵政民営化の原因の一端は、映画版『時計じかけのオレンジ』にあったとはいえないでしょうか。

いままた『墓場鬼太郎』がみょうにもてはやされていますが、こういうのも、この90年代の文化人たちがスティルナー主義ないしリバタリアニズム的な価値観をもてはやしたことの余韻が、いまだにのこっていることの証明でしょう。原作の水木しげるも『墓場~』の方がいい、とかいっているんでもうどうしようもないですよ。

テレビ版の鬼太郎は社会運動家的だったのに、墓場鬼太郎は、たんなる犯罪者ですからねえ。日本赤軍のメンバーだって「革命家、社会運動家は、世のため人のために自分を捧げることを決意した人」といっているのです(かりの会ブックレットNo.5『欧州留学生拉致問題についての見解』より)。

なのに、テレビの鬼太郎のほうが「幼稚である」とされ、『墓場~』を認めない人間は「子どもだ」とかいいがかりをつけられて社会から排除されるという、90年代から現在の国内世論には疑問を感じざるをえません。

*参考1、日記『改めて去年の郵便局の東映ヒーローのポスターにつばを吐く(長い!) 』
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/51403522.html
*参考2、親サイト『ワンダバステーション』の『70年代カルチャー第二期ウルトラを総括せよ!』
(おもに後半部)
http://www.geocities.jp/wandaba_station/page3.html

いまの東映テレビプロので子ども番組をつくっている人たちは、すべてこういう「『墓場~』を認めない人間は排除する」という側の人間たちでうめつくされており、ことあるごとにそういう方向の作品を撮りたがるという状態になっているようです。当初は白倉伸一郎とその周辺の人間たちだけかとおもいきや、ここのところの作品をみていると、どうやら全部のスタッフが、そういう作品を撮りたがっているようです。
墓場鬼太郎』が話題になっていることを知って、また東映のスタッフは「『墓場鬼太郎』みたいなのを撮りたい」などとぼやいているのは間違いないでしょう。いまやっているゴーオンジャーも、いつボウケンジャーのような思想転向をおこなうか、もう時間の問題といっていいでしょう。