地下潜伏計画その2

筆者が、このサイトでいままで書いている(これからもずっと、かなり長期戦を覚悟していますので、場合によっては、10年、20年でもつづけるつもり)国内マスコミは資本主義を左翼だと勘違いしているということへの追求ですが、またも今日の朝日新聞がおかしなことをかいています。

朝日新聞社でも「論座」のほうはやっとマトモになったというのに、本誌とかアエラの記者はどうしようもないですね。

今日の朝日新聞の4面には、安部政権の分析のコーナーがあって、ここで岸信介がかつて市場原理主義を批判していた発言を引き合いにだし、あたかも市場原理主義を批判するのは右翼だというようなニュアンスの記事をかいている。

あげくに、安部首相は著書『美しい国へ』(文藝春秋)で、スウェーデン型の高福祉国家を否定している(165ページ)うえに、社会保険庁の民営化をすすめているのに、こういうことをオミットして「安部首相は社会保障を重視している」というようなこをと書くのは重大な誤報道ではないか。

このサイトで以前2/4「『共産党宣言』を読む」でふれたように、封建主義(絶対王政)のスタンスの人間が、ブルジョア階級を批判するということは昔からあったのですが、これがいまだに理解できず、「封建主義の人間が市場原理主義を批判したから、市場原理主義は左翼なんだ」という、おそろしいまでの単純な誤解をしているのはどういうことなんでしょうか。こんな短絡思考の人間が大新聞の記者をやっているというのはなんなんでしょうか。

マルクスの『共産党宣言』にもあるように、封建主義者にとってブルジョア階級というのは自分たちの地位を脅かした存在であって、そういう意味ではプロレタリアと同様、ブルジョア階級には恨みをもっているものなんですが(岩波文庫版・70~71ページ参照)このことがいまだにわからないんでしょうかねえ。

岸信介が、市場原理主義を批判して国家による経済への介入を指向していたからといって、それはリベラリズムの意味での介入ではなく、絶対王政の「絶対主義的重商主義」に該当するんじゃないですかねえ。
「絶対主義的 重商主義」は「特権大商人の独占を保護、産業資本の発達を阻止する」んだそうで、ようするに政府とつながりのある特定の大商人以外のブルジョア階級が力を持ち過ぎないように、王権がブルジョアを押さえ付けるということのようです。フランスのコルベール主義、ドイツの官房学派などが代表的なものらしいです。

*参考;「ハイパーリンク世界史事典」の「重商主義」の項
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/mercantilism.html

日本国憲法には第二十五条で弱者救済を定めているので、日本国憲法市場原理主義ではなく、社会保障重視のリベラリズム憲法です。

「1. すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
(以上、日本国憲法 第二十五条)

なのに、この記事を書いた朝日の記者は、なぜかこの第二十五条の存在をわすれて、日本国憲法市場原理主義憲法だと勘違いしているようです。これも重大な見落としでしょう。社説にかいてあることもあわせると、あたかも「市場原理主義を否定することは、憲法改正につうじる」とすらいいたげな感じです。
さらには、日本国憲法には、12条と13条で公共という概念の重要性を成文化しており、そういうことからしても、日本国憲法市場原理主義憲法ではなく、社会保障重視のリベラリズム憲法なのです。

これで、社会保障を重視するスタンスが右翼であるという誤解が、ますます日本国内に定着するんでしょうか。
普通に考えて、私有財産を共有化するという共産主義個人主義であるはずがない。ならば個人主義が左翼であるはずがないではないか。このサイトでは、60年代のアメリカの新左翼や、70年代の日本赤軍などが個人主義を否定したという事実を、いくつも紹介しているんですが、こういうことをいくらやっても分からないというのはどういうことなのか。

朝日新聞にこういう記事が載った場合、国内のリベラリズムを研究する学者(たとえばロールズの研究をしている学者)はなにもいわないんでしょうかね。こういう報道を放置しておいたら大変なことになるとおもうのですが。

公民権運動で有名な、アメリカのリベラル派の市民運動家キング牧師は『私には夢がある M・Lキング説教・公演集』(新教出版社)によると、

「隣人への関心を部族や人種や階級や国家を越えたものへと引き上げる世界的連帯意識へのいざないは、実際はすべての人間に向けられた普遍的で無条件な愛への招きでもある。この愛はしばしば誤解され間違って解釈された概念であり、二ーチェのような人々によって惰弱で臆病なものとして簡単に排除されてきたものだが、しかし人類が存続していくために絶対不可欠なものとなっている。(180ページ)。」

といっています。この「隣人への関心を部族や人種や階級や国家を越えたものへと引き上げる世界的連帯意識へのいざない」という「人類愛」の概念こそが、筆者がここでなんども書いている「ナショナリズムと切りはなした公共」です。世界人権宣言の29条にも、「公(パブリック)」という言葉がつかわれており、国連で採択されたこの世界人権宣言に「公」という言葉がつかわれているのは、国家意識とは別の「公」という概念がありうることを示唆しています。
こういうことがわからないというのはどういうことなんでしょうかねえ。