「空気が読める」は集団主義か?

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さて、前々から気になっていたのですが、今のマスコミの「空気が読める」という言葉の使い方が変ですね。どういうわけか、今のマスコミは、「空気が読める」は集団主義的な価値観だと思い込んでいます。
しかし、実際は「空気が読める」という言葉自体は集団主義でも個人主義でも、どちらの側にでもつく言葉ではないかとおもいます。

たとえば、個人主義の人間があつまる集団のなかで集団主義的な価値観を唱えると「空気が読めないやつ」として排除されるというのが、今の日本の実態です。なのに、国内マスコミは「空気が読める」イコール「集団主義」という構図を無理矢理つくっています。

これは、自分の実体験から言っています。「自分の利益だけ考える」「友人しか助けない」「社会貢献、弱者救済なんでくそくらえ、楽しければいいんだ」という個人主義の価値観の人間があつまっているサークルに、自分みたいな「人類みな兄弟」「社会貢献、弱者救済が大事」という集団主義の人間が1人入ると、そのサークルの人間は、自分のような集団主義の価値観の人間を村八分イジメをしてはじき出そうとするからです。

ちなみに、個人主義とは単に「なんでも1人でやる」という意味ではありません。恋人とか友人といった、自分の気に入った人間とだけ協力するということも個人の領域です。それと違って、自分とは面識がない人間たちにも奉仕するのが集団主義です。

自分の利益にとって必要な人間とは協力して自己の利益を追求するのが個人主義です。これは、個人主義系の思想でもっとも過激なシュティルナー主義の「エゴイスト同盟」にもみられる考え方です(ジョージ・ウドコック著『アナキズム1 思想編』(紀伊国屋書店)132ページ参照)。

ちなみにシュティルナー主義とは、自分の利益になる人間とは協力して、その他の人間は殺してもかまわないという過激な個人主義であり、資本主義系の保守主義リバタリアニズムに含まれる(リバタリアニズムのもっとも過激なバージョン)とされています。

マレイ(マレー)・ブクチンという学者は『現代思想』2004年5月号(54ページより)の高祖岩三郎による文章『「アナーキー」あるいはその「実践倫理」の波長域』内の記述によると、シュティルナー主義をリバタリアニズムと同じだとして批判しています。
森村進の『リバタリアニズム読本』(勁草書房)でも、シュティルナー主義をリバタリアニズムの一種としてとりあげています(102ページ~)。
シュティルナー主義はアナーキズムの一種ですが、そのなかでも資本主義の右派に属するものなのです。

左派アナーキズム社会主義寄りのアナーキズム)の代表的な思想家であるクロポトキンシュティルナー主義を批判しています。
玉川信明/著『FOR BEGINNERS シリーズ39 アナキズム』(現代書館)によると、クロポトキンは小冊子『無政府主義の倫理』でシュティルナー主義に反対して、社会性と連帯性との倫理学を提唱し「相互扶助」「正義」「自己犠牲」の三要素を道徳の根幹としました(128~129ページ)。

(画像は『FOR BEGINNERS シリーズ39 アナキズム』の社会主義寄りのアナーキズムのスタンスを分かりやすく表したイラスト。126ページより)

アナーキズムは、それ自体が即「左翼思想」というわけではありません。「シュティルナー主義」はアナーキズムですが、これはリバタリアニズムという資本主義側の右翼に属する思想なのです。ほかにもアナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)という資本主義側の右派のアナーキズムもあります(『現代思想』2004年5月号(54ページ)やwikiの『無政府資本主義』参照)。
日本でアナーキズムと思われているのは、大概シュティルナー主義のことではないかとおもいます。これは先にも述べたように、本来なら右派のアナーキズムに属します。

なぜ、日本でシュティルナー主義だけがアナーキズムだと思われているのかというと、やはり文化人たちが、先にあげたようなアナーキズムの本来の俯瞰図を把握していないまま、「アナーキー」という言葉の響きだけでアナーキズムというものを理解したつもりになっていたからでしょう。
(『仁義なき戦い』に代表される実録ヤクザ映画は、明らかにシュティルナー主義に属する映画であるにもかかわらず、これを日本の映像業界人たちは「左翼的な映画」と誤解して、名作として祭り上げています)。

先のクロポトキン社会主義側(左派)のアナーキストの代表で、単に中央政府をなくして地方分権化(コミューン)することを「無政府」と呼んでいるだけです。このながれがあとにマルクス主義共産主義へとつながっていきます。

ちなみに、以前某社会人サークルで自身を「アナーキスト」と自負するニューヨーク出身のアメリカ人と話をしましたが、彼も「空気が読める、読めない」という最近の日本の流行は理解できないといっていました。
この「空気が読める、読めない」というのは、儒教思想の「一を聞いて十を知る」からきているのではないか、という話になりました。

このように空気を読むというのは、集団主義というよりは「他人の意思を、きちんと言語で説明されないでも勘を働かせて理解するのが美徳」という価値観であり、集団主義とは別のものでしょう。

*追記(2010/10/31)
「空気を読む」ということは、明確な表現主張を避け状況から「察する」ことですが、こういうことが好まれる文化というのは「ハイコンテクスト文化」というそうです。「ハイコンテクスト文化」とは生活習慣や文化的背景、経験に共通部分が多い文化であり、それによって状況から「察する」ことが好まれるようになる文化だそうです。「ハイコンテクスト文化」については以下のHPを参照。

*HP『exBuzzwords用語解説』の『ハイコンテクスト文化とは』
http://www.exbuzzwords.com/static/keyword_3821.html

*****(以下、過去の日記の重要記事のリンクです。未読の方は是非お読みください)*****

90年代を頂点にして、日本では欧米文化への誤解から個人主義が左翼思想だとまちがえれられていました。この問題について詳しく言及した親サイトの文章や過去の日記のリンクを張っておきます。未読の方はどうぞ。

*親サイト『ワンダバステーション』『公と個の論争への検証』
http://www.geocities.jp/wandaba_station/koutoko.html

*このブログの過去ログ
2010/4/11『リベラル派の「自由」の意味とは』
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/61140438.html
2009/8/2『デューイの教育論への誤解?』
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/60088553.html
2009/8/9『前回のデューイの話の補足』
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/60120442.html
2009/7/18『「住人立ち退き問題」への誤解?』
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/60018587.html

ついでに60年代アメリカのドラッグカルチャーも長らく日本では90年代のロックブームを頂点に誤解されていました。本来はドラッグカルチャーというのは、ドラッグによって人間を人類愛に目覚めさせるという目的でおこなわれていました。このことについて詳しく知りたい方は以下のこのブログの過去ログをどうぞ。

2008/8/2『世界中の神を総動員』
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/56109867.html
2009/8/30『永田町悪魔払い?』
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/60213109.html
2006/1/18『サイケデリック・レンジャーズ』
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/23741545.html

本サイトでは現在の日本における非モテの問題もあつかっています。
個人的にはかなり決定的な分析ではないかと思っております(笑)。
2010/6/26『非モテ現象の真の原因はこれだ』
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/61428868.html
2010/4/17『これが非モテ現象の原因か!』
http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/61163814.html