公明党がなぜ批判されるのか

さて、よせばいいのに、今回もまた創価学会公明党関係の記事をかこうとおもいますが、そのまえに、今回もなぜかシンケンジャーの感想からいこうとおもいます。

今回もなかなかいい話でした。敵の作戦はいかにも子ども番組という感じのものでしたが、女性2人のドラマも描かれてていいお話だったとおもいますね。
今回から、ロボ戦がとうとう本編特撮になってしまいました。例年のロボ戦は最初の3話ぐらいまで特撮研究所によるもので4話以降は本編スタッフによる「本編特撮(これもすごい日本語だけど)」になるのがパターンでしたが、今年は先週まで特撮研究所がずっと撮っていて、今週はじめて本編特撮というのは、戦隊では今までにない豪華さだったとおもいますね。本編特撮といっても、最近はかなりレベルがあがっていて、特撮研究所の撮るものとそんなに極端に落差がでないのがいいですね。

さて、本題ですが4回前から前回まで、北野誠の無期限謹慎の問題を話のとっかかりにして、創価学会がなぜ日本で強い力をもっているのかを考察しました。

*参考:4回前から前回までの日記(未読の方はどうぞ)
創価学会を無力化する方法-暫定版』http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/59040636.html
共産主義はなぜ宗教を禁止するのか』http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/59111381.html
草なぎ剛の報道について(誤字修正版) 』http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/59186344.html
『題名の付けようがないので困る』http://blogs.yahoo.co.jp/wandaba_station/59255953.html

ここであらためてですが、公明党創価学会が、なぜ批判されることがおおいのか?ということの根本的な理由が理解できていない人が、巷にな実は結構おおいのではないかとおもったので、今回はこの理由について、自分なりに説明していこうとおもいます。

創価学会は、その教団の体質などからカルト宗教のような性質をもつといわれます(筆者は脱会しようとした人が●×△■…というような噂まで某ルートから聞きました。が、物的証拠があるようなことではないのでこの件については大きくは取り上げません)。

では創価学会が、そういうカルト宗教的な体質の団体ではなかったとしたら、公明党というのは問題ないのでしょうか? 実はそうではないのです。そして、この部分こそが、本来は創価学会公明党の抱える最大の問題なのではないかとおもえます。

日本国憲法には政教分離原則を説いた20条があるのですが、創価学会のように宗教団体自体が政党をたてて選挙に臨むことはこの政教分離原則に反しているということがいえるのです。

いわゆる政党というのが選挙に出るとういうのは、政治権力獲得を目指していると考えれれるからです。宗教団体が政治権力を獲得しようという行為は政教分離原則を説く憲法20条が禁止していることなのです。

このような理由が、公明党創価学会の本来の批判されるべき理由と考えられます。ところが、90年代のマスコミで起こった「公と個の論争」というのは、個人主義を左翼思想と間違えたうえで出来上がった出版マスコミにおける流行であり、そういう90年代においては、公明党の批判される理由が「福祉に力を入れる」ことへと変化してしまったのではないかとおもいます。

政教分離原則というものは民主主義の大原則といえるのですが、公明党はこれを脅かすものであるといえるために、批判されなければならないとおもいます。

さて、そこで問題なのが、4回前の日記2009/4/12『創価学会を無力化する方法-暫定版』で「共産主義ローマ・カトリックの換骨奪胎である」としたうえで筆者が書いた「国内の共産主義者たちは「マルクス主義は疑似宗教である」ということを開き直って認めたらどうか」という筆者の意見は、ちょっと暴論だったかなあということです。

むろん「疑似宗教」という言い方は、筆者としては「宗教のようでいて宗教そのものではない」というつもりの表現でしたが、これを読んだ方のなかには「共産主義を宗教と断定している」という意見として読んだ方もいらっしゃったかもしれないからです。ちょっと誤解を招くような書き方をしてしまい反省しています。

共産主義が、なぜ宗教的な価値観を唱えたものでありながら宗教を否定するのか、という理由は、この政教分離原則というものに反しないようにするための建前という、ちょっと意地の悪い見方もできます。

しかし、貧困や障害などの不遇な境遇に苦しみたくなければ、この「建前」を通しつづけるしかないといえます。この「建前」を「そんなのずるいじゃないかー」など批判する人は、自分がどんなに不遇な境遇に立たされても、それに耐えつづける覚悟をしなくてはなりません。また、そういう人は自分のことを「左翼」と自称してはならず、あくまで「資本主義の右翼」といわなけらばならないとおもいます。

*公と個の論争については、こちらへまとめました。未読の方はどうぞ。
『公と個の論争の検証』
(親サイト『ワンダバステーション』内の『ニーチェと少年犯罪についての一考察』内の記事)
http://www.geocities.jp/wandaba_station/koutoko.html